Contemporary artist Ryohei Ohno 現代美術作家 大野良平さん

2018.01.06 Saturday 12:21
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     街とひとの心の『再生』を願って

     

    未曾有の大災害、阪神淡路大震災から23年目を迎えます。

    はたして街やひとの心は再生されたのでしょうか。

    わが街、宝塚市も118名の尊い命が犠牲になりました。

    1.17の前夜に震災犠牲者を追悼するとともに、

    震災を知らない若い世代に命の尊さや生き続けることの

    意味について考える機会になれば幸いです。

    宝塚生』の祈り2018 パンフレットより)

     

     

    Object オブジェ

     

     People to mourn the earthquake victims 震災犠牲者を追悼する人々 Ryohei Ohno 大野良平さん

     

    オブジェ』誕生の発端は、宝塚南口駅前のサンビオラ三番館に空き店舗が沢山あったので、2002年からそこを会場に現代美術展を開催していた。現代美術作家の大野良平さんが事務局を担当するようになり、阪神淡路大震災から10年目を迎えた2005年1月、街とひとの心の再生』をテーマに作家たちに参加を呼びかけた。

     

    だが、サンビオラ三番館も地権者のやむおえぬ事情で自由に使える空き店舗がなかった。かくなる上は街に飛び出して創作を仕掛けようと、武庫川中洲に再生という文字を石積みするアイディアが浮かんだ。残念ながら展示場所に限界があり、を削り』の文字だけになってしまった。翌年、破損した箇所の修復をしてライトアップを実行した同年秋、台風による大雨でオブジェ』は完全消滅してしまった。

     

    しかし、幸運な出来事もあった。2008年、有川浩の小説阪急電車』にオブジェが登場してから多くの人々に知られるようになり、2010年12月、地元ボランティアと一緒に『生』を再現、2011年の震災発生同日前夜の1月16日、懐中電灯による犠牲者追悼のライトアップが始まった。以降、その行事は毎年行われるようになった。

     

    ライトアップに先立って、2017年12月9日と10日の両日、午前9時から正午まで、石積みオブジェ(約、縦20m、横10m、高さ80cm)の復元作業が行われた。毎年、台風や豪雨でオブジェが流されたり破壊されたりしたが、大野さんの想いは当初と変わることはなかった。復元作業には、地元ボランティア延べ100人が参加、その中には震災を知らない子供たちの姿もあった。

     

    Work site 作業現場風景 左上の写真は大野良平さん

     

    Wish 積まれた石にボランティアが願いごとを書く

     

    芸術家めざして東京へ

     

    1959年、大野さんは宝塚市山本で生まれた。山本は、昔から植木職人の町として有名である。物心ついた頃から芸術家になりたいと思っていた。叔母が画家、佐伯祐三の甥に嫁いだので、パリで描いた作品が家に飾られていた。余談になるが、この絵は大阪空襲で焼失してしまったのだという。そのような縁から、佐伯祐三に関する本や作品集を買い求め、いつしか芸術家の生き方に憧れるようになった。大野さんの父、二良(じろう)さんはごく普通の会社員だったが、母、久子さんは3月に雪が降ると、その雪でお雛様を模る感性の持主、大野さんの素質は久子さん譲りなのかも知れない。

     

    高校を卒業して一年、浪人生活を過ごして19歳になると油絵が描きたくなり、東京で絵の勉強をしたいと家族に告げた。長男だった事もあり、二良さんは「芸術なんか河原乞食みたいなものだ」と反対した。しかし、1歳年上の姉、朱実さんが父を説得してくれたので上京が可能になった。朱実さんは、小さい頃からいつも優等生で家族の誇りだった。東京で独りぼっちでも「いつも自分を応援し見守ってくれる姉がいる」と思うだけで安心感があった。だが、そう甘いものではなかった。

     

    東京藝術大学受験に3度挑戦したが叶わなかった。藝大を受験するには学力も然ることながら、予備校の画塾に通って実技能力を磨かねばならない。しかし、大野さんには持ち合わせがない。たまたま借家近くに美術予備校の立川現代美術研究所があり、学費が安かったので通い始めた。現在は立川美術学院と名称を変更して立派な建物になったが、当時は安いだけあって校舎を歩くだけでギシギシと床が音を立てるのだった。

     

    生活費に窮する状況なのでモチーフを選択する余裕は無論ない。仕方なく近くを流れる多摩川の土手を訪れては、絵の制作に励んでいた。それを見かねた下宿の大家さんが「大野さん、作品売ってきたよ」と1万円を手渡すではないか。彼は小説家、立原正秋の弟子だというから、芸術関係に幅広い人脈があったに違いない。「草野心平さんが買ってくれたよ」彼は言う。草野は絵もじっくり観ずに「お金いるんだろう」と手渡したというのだ。憧れの詩人、草野心平に買って貰えたことが余程嬉しかったのだろう、大野さんは子息が誕生した時、『心平』と命名している。立川現代美術研究所では、受験目的の絵より、自分の気に入った絵ばかりを描き続けた。これでは藝大に合格する筈もなかった。だが、その行動が、大野さんの型破りな発想の原点に繋がったのではないだろうか。

     

    1982年、姉の朱実さんが24歳の若さで急逝した。両親から再三「戻ってこい」と言われ、1986年、大きな挫折感を背負い宝塚に戻った。

     

     

    帰郷、宝塚造形芸術大学入学、そして阪神淡路大震災に遭遇

     

    帰郷した大野さんは就職するつもりだったが、1987年、自宅裏山に宝塚造形芸術大学が設立されることを知り、第一期生として入学することにした。大学では彫刻家、今村輝久(1918-2004)教授に師事した。今村は戦後抽象彫刻の第一世代作家で、アルミや真鍮など金属を素材に独特な丸味と渋い光沢を生かして、お洒落でユーモラスな作品を制作していた。

     

    今村家は代々鋳物職人の家系。聖徳太子建立七大寺のひとつ、大阪市にある四天王寺の鐘は輝久の父が鋳造したものである。しかし、大阪空襲で工房が全部燃えてしまい、「もう、お前の好きなことをやれ」と父は家業の縛りを息子から解いた。それから輝久は彫刻の道へと進んだ。「今村先生は気さくで偉ぶらず、よく一緒にお酒を飲みました」、大野さんの言葉から良好な師弟関係が伺える。

     

    今村は自分が好きな彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシの作品を愛弟子に紹介した。ブランクーシはルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な作家、余計な装飾や説明を削ぎ落とし、シンプルな形と色で表現するミニマル・アートの先駆者である。「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」という名言も残している。大野さんはブランクーシに触発され、洋画から彫刻への転向を決意、原木を使ったブランクシー張りのシンプルな形を追求する創作活動を開始した。

     

    1995年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生した。大野さんが生まれ育った宝塚市山本の家は、戦前の木造建築、柱は傾き解体せざるを得なくなった。その事がきっかけとなり、自宅の廃材を使って作品を創るようになった。震災前までは原木を削って形を起こす作風だったが、震災後はあえて廃材の粗さを前面に現すようにした。「表面から見える時間性、素材のもつ命、それを具現化する作業」だと大野さんは解説する。

     

    Vessel of life 命の器 1992

     

    作品『Vessel of life 命の器』は、命をもった素材と向き合い長い対話の中からから生まれるかたちを『命の器』と名づけた。

     

    Origin of life 生命の起源 1993 Circulation 循環 2000

     

    作品『Origin of life 生命の起源』は、木という素材から有機的な生命のかたちを抽出することを探求した連作である。作品『Circulation 循環』は、現場の臨場感を出すため、壊れた家屋の写真を引き伸ばし、それに黄土を塗り、前方に苗木を配置、命の循環を表現しようと試みる。

     

    Scrap wood in memory 記憶の中の廃材 2002 Memory of seed 種の記憶 2009

     

    作品『Memory of seed 種の記憶』は、ローズウッドの端材を磨きあげて樹木の命の根源である種子を想起させる。『記憶の中の廃材』シリーズ作品に孕(はら)む生命の象徴として配置した作品である。作品『Scrap wood in memory 記憶の中の廃材』は、震災で生まれ育った自宅を解体した時の柱、梁、引き戸などの木製遺品を素材として向き合った作品である。表面を規則正しくドリルで無数に穿つ。風化した表面から新しい木の地肌が立ち現れる。記憶をもった素材(廃材)の中から新たな生命を見出そうとしている。明治28年生まれの祖父、龍介さんは、戦後まもなく都会の大阪十三から長閑な宝塚山本に移った。戦時中に建てられた平屋建ての庵に『清風荘』という名を付ける風流な人物であった。「ちょっと遊び人だったらしいですけどね。夏になると建具を入れ替え、葦簀張りするなど季節感のある家でした」大野さんは幼少の頃他界した龍介さんと昔の我が家を偲ぶ。

     

    Remember 記憶の原郷 2004

     

    作品『Remember 記憶の原郷』は、最終的に記憶は土に帰って行く。そんなイメージで型枠を作り、そこに黄土をふるいに掛ける。黄土は重いから沈下して飛び散ったりはしない。ギャラリー室内と外にあるベランダにまで黄土を拡散する。形あるものは、やがてなくなる。でも、心はいつまでも残る。若くして亡くなった姉の記憶が生き続けるという気もちを込めた作品だ。

     

    Pyramid of memory 記憶のピラミッド2009 Space-time 時空 2010

     

    作品『Pyramid of memory 記憶のピラミッド』は、自宅の廃材を積み上げ記憶を再構築する工程なのだという。作品『Space-time 時空』は、積み上げたものもいつかは朽ちて土へ還っていく。しかし命の営みは永遠に続く。これは、何度流されても積み続ける『生』の精神に通じる。

     

     

    ひととなり

    Ryohei Ohno  大野良平さん

     

    「芸術は生き続けるもの、作家は死ぬまでが勝負」という理念を大野さんは抱いている。それを模索するかのように、人と場の出会いでの体験を素直に受け入れ、そこを出発点として新たな創作に挑もうと試みている。現代美術を志向する多くの作家たちには、排他的、刹那的で気難しい人も多い。しかし、彼はそれとは一線を画する存在である。ここに大野良平さんの人柄を象徴するエピソードがある。

     

    宝塚造形芸術大学を卒業して就職先に目途が立たなかった大野さんに、今村教授は甥っ子が務める工房を紹介した。その仕事場で抽象彫刻の草分け、故植木茂夫人と出会った。夫人は「木彫やっているなら、主人の木がぎょうさん残っているんやけど、もらってくれない」と大野さんに語りかけた。しかし、大野さんは恐れ多いと考え辞退したという。奥ゆかしい彼のひととなりが滲み出る逸話である。 

     

    2017年11月、こちらは宝塚ガーデンフィールズ跡地で開催された6回宝塚現代美術てん・てん2017での出来事、大野さんは仲間と激しい議論を交わす場面があった。大野さんは、同展で作家同士の出会い、そして、今は消えてしまった宝塚ガーデンフィールズ』への郷愁から生まれる創作の可能性を大事にしたいと考えていた。だが、作家の中にはコンセプトを設定して、それに相応しい作家を選択すべきだという考えを述べる者もいた。結局、大野案で実施することになったが、一体どんな風に纏まるのかという不安もあったが、そういう議論の過程も、大野さんにとってはアートなのだ。創作に対峙する厳格な一面もある。

     

    最近の大野さんは、展示会場と立体作品が有機的空間を構成するインスタレーションと呼ばれる仕事を数多くしている。宝塚ガーデンフィールズ跡地で行われた6回宝塚現代美術てん・てん2017』では、その場にあった朽ち果てた木や枝を拾い集めて並べ、かつての大温室解体時に飛散したガラスの破片や無数のガラス玉を敷き詰めて作品を完成させている。だが、繊細な大野さんだから、潜在能力をもっと生かした作品づくりが可能ではないかと期待してしまう。自身も出発点だった油絵や原木の木彫に戻りたいと思っているようだ。幼少の頃、「宝塚ファミリーランドを訪れると観覧車や動物園があり、花火大会もあって心がワクワクした」という大野さん。そんな素朴さと自分に正直な姿勢に私は魅かれた。

     

    大野良平さんのFacebookページ http://facebook.com/ohnor

     

    文と写真:奥村森

     

     

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