パリ、フランス回想 奥村森「青春彷徨記」1968-74

2017.02.10 Friday 16:44
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    わが憧れのパリ、フランス 70年代青春の彷徨

     

    エッフェル塔& セーヌ川

     

    パリは夢追い人の憧れの終着駅だった。フランスは知的興奮を充足させる母なる国だった。5月革命で人々の心に暗雲が立ちこめ、目標を喪失してはいたが、パリが世界の恋人であることに変わりはなかった。1968年、僕は23歳の時、初めてパリの土を踏み、数年間をフランスで過ごした。

     

    1970年代は英雄の死から始まった

     

     僕が初めてフランスを訪れたのは、1968年10月であった。パリ・オルリー空港からリムジンバスで市内のアンバリッド・エアターミナルに到着すると、物々しい厳戒態勢が敷かれていた。海外経験のなかった僕は、早くも怖気づいていた。この年の5月、花のパリはゼネストで都市機能が麻痺し、ゴミの山と化した街中で、左翼学生と警官が激しい衝突を繰り返していた。これまでの革命は武器や暴力で政府に対抗するのが常であったが、市民がゼネストで抵抗するというネガティブ革命の始まりでもあった。この革命は“5月革命”と呼ばれ、その後遺症が尾を引いていたのである。第2次大戦後、喪失したフランスの栄光回復に尽力してきたド・ゴール大統領も、就任9年目にして政治的危機に立たされていた。69年には10年続いた長期政権も終焉を迎え、翌70年にはド・ゴールも80歳の生涯に幕を閉じた。秋冬のパリは厚い雲が覆い、市民の気もちに暗雲が立ちこめる。英雄の死は、それをより一層重苦しいものにしていた。強い大統領を失い、守る者も攻める者も頼る柱と標的をなくして迷走状態に陥っていた。 

     

    モンパルナスの古い建物と老人

     

    葬儀はコロンベイで行ってほしい、そして国葬は望まないと言うド・ゴールの遺言に従って、11月12日、アメリカ・ニクソン大統領、ソ連・ボドゴルヌイ最高会議幹部議長、オランダ・ユリアナ女王など63人の現職と前職を含む各国の国家元首が出席して、ノートルダム寺院でミサが行われた。故人の遺志に反してミサは華やかで各国首脳の外交の場になっていた。日本からは愛知揆一外務大臣が参列していた。フランスの流儀に合わせたのだろうが、外相のシルクハットが背たけに似合わぬほど高く、欧米に追いつけ追い越せの分不相応な日本の国家姿勢と意気込みがこんなところにも現れていた。

     

    フランス人は偉大な権威と誇りを失い、従来の価値観崩壊の兆しに大きな不安を抱いていた。ミサでのポンピドー大統領の演説も「フランスは未亡人になった」と、国民の気持ちを如実に代弁していた。ときに中国では文化大革命の嵐が吹きまくり、毛沢東思想が資本主義国の学生にも大きな影響を与えていた。経済至上主義に同調できない若者が、ヒッピーとなって地下道などで三々五々集う姿が見受けられた。パリ・モンパルナスや郊外のラ・デファンンスでは、古い建物が次々と近代的なビルに変わった。取り壊されないまでも黒ずんで汚れた建物は世紀の大掃除で白く小綺麗にされたが、歴史も情緒もともに洗い流してしまった。人は社会変貌に具体的な策を持たないまま、刻々と過行く時に身を任せていたのである。

     

    パリのエトランゼ

     

    僕はエアターミナルから、知人に紹介された15区のサン・サーンス通りにあるマダム・カメンスキー宅へと向かった。彼女のアパートは17番地にあった。ひと1人とスーツケース1個を載せるといっぱい、格子戸造りのアンティークエレベータに乗り、6階で降りると目の前にマダム・カメンスキー宅があった。彼女と夫は、白系ロシア人でフランスに揃って亡命していた。夫は有名な音楽家で、バイオリニストの諏訪根自子を育てたことでも知られている。夫が他界してからは、日本の音楽家に部屋を賃貸して生計を立てていた。音楽関係者以外、しかも男性の下宿人は、恐らく僕が初めてだったのではないだろうか。彼女はすでに高齢で、腰も曲がり目も足も不自由な身体であった。それでもベッドメーキングの仕方やテーブルマナーに至るまで難儀な身体に鞭打って親切に教えてくれた。当時、僕は23歳だったが、彼女はティーンエージャーと勘違いして保護者義務を感じていたようだ。

     

    朝食には、バケットにチーズ、ハム、ジャムなどをふんだんに挟んだサンドイッチを作り、「若いのだからもっと食べなさい」とすすめる。僕が無理して食べるものだから、日ごとにサンドイッチの量は増えていく。「もう結構です」と言いたくでも言葉も通じず好意を無にするのも憚られ、彼女が部屋から出た隙にカバンに食べ残したサンドイッチをしまい込んでは、出先で昼食と夕食に当てるのが日課となった。1ドル360円時代で円の持ち出し額が限られていたので大いに有難かった。しかし、1カ月の家賃750フラン(5万2千5百円)は、無職の僕にとっては負担が大きく、1ケ月で引っ越すことになった。何年か後に懐かしく思い、マダム・カメンスキーを訪ねたが、すでに亡くなって別の人が住んでいた。同じアパートの住人に尋ねても、彼女の消息を知る者はいなかった。親類縁者もいない亡命者の孤独な末路を考えずにはいられない。パリ在住も2年が経過しようとしていた。職の見つからない間は屋根裏の安下宿を転々としていたが、幸いにもコマーシャル・フォトスタジオで知り合ったドイツの友人に誘われ、エッセンの小さな通信社から仕事をもらうことが出来た。細々とはしていたが自立した生活ができるようになっていた。パリの住まいもグレードアップして、ブローニュの森が見えるアパートに移った。休日にはカメラ片手に辺りをスナップする余裕すらできた。

     

    地下鉄ポルト・マイヨ駅近くに雰囲気のよいホテル庭園を発見、ロビーを訪ね、片言のフランス語で受付のボーイに撮影許可を得ようと試みる。すると「はい、どうぞ」流暢な日本語が返ってくる。撮影することも忘れ「一体この男は何者だろう」僕の好奇心は高まる。彼は、アンドレ・ヴォルダルチック。チョコスロバキアから亡命し、12カ国語を自由に操る翻訳家だ。のちに三島由紀夫作品をフランス語に翻訳して出版するほどの人物であった。彼とは、友人として付き合うようになったが、若いころ地下鉄で乞食をしたこともあるとショッキングな話をしてくれた。僕も刺激されてポルト・マイヨ駅の地下道で1週間ほど乞食を体験した。意外にも沢山の人が恵んでくれるので、パン、チーズ、果物など最低限の食生活には事欠かなかった。

     

    メトロ モンパルナスビアンヌボー駅

     

    何より実感したのは、金持ちより貧乏人が、寂しいサイフの中から心づけをくれることだ。きっと他人の痛みが分かるからだろう。生活に窮していたのではなく乞食を演じた自分に後ろめたさはあったが、人間の心を知るうえで貴重な体験となった。後に著名になった日本人著作家も「乞食をしたことがある」と語っていたのを思い出す。当時は、かなりのインテリでもこうして糧を稼いでいたのだ。成功を夢見て。

     

    エコール・ド・パリ 人間模様

     

    1925年ごろから国外の芸術家がパリで暮らしながら制作活動をするようになる。これを呼称してエコール・ド・パリという。モディリアーニ、スーチン、パスキン、キスリング、藤田嗣治、シャガールなどが、その時代をリードした代表的な作家だ。彼らの作品には、祖国喪失者としての不安と哀愁が共通点として見られる。大戦後は、パリで活躍する内外の芸術家の総称として用いられるようになった。この時代を記録に残したのが写真家・ブラッサイである。彼もまた、ハンガリー出身で1923年からパリに住み着いた経歴の持ち主だ。彼は彫刻家、画家、詩人としても知られる多彩な芸術家だ。写真を志す者としてぜひ一度会いたいとの思いは、知人のつてを頼って実現した。彼は、大量のオリジナルプリントを見せながら写真家の地位について語った。ブラッサイほどの写真家にして、画家や彫刻家に比べると地位は低く、芸術家を撮らせてもらうには、まず気に入られること。だからプライベートな事、例えば女性関係の後始末などの面倒までもしたと回想する。

     

    写真家・ブラッサイ 1973 と芸術村 ラ・ルーシュ 1997

     

    藤田と同時期に渡仏して開花せぬまま埋没した画家も、敗者の掟から始末係としてモンパルナス界隈にたむろしていた。そしてついには、なだめるはずの女を妻にして晩年を迎えていた。彼の家はアラブ人労働者たちが住むパリの外れにあった。心の傷が癒えないのだろうか、多くを語らず薄暗い狭い部屋で不自由な身体をベッドに横たえながら「日本へは帰れない」と嘆いていた。一方、エコール・ド・パリ時代末期の画家、カテラン、ブラジリエ、テレスコビッチなどは、日本市場の外国崇拝に歓迎され、何度も来日する皮肉な現象が起きていた。

     

    パリの日本人

     

    70年代に入ると急激に日本人がパリを訪れるようになった。商社、画商、デザイナー、画家が先陣をきり、後半には旅行会社による団体ツアー客、それに伴って日本料理店やデパートがパリで営業を始めるようになった。ある画商は、発売されたばかりの高級車マセラッティーで派手にパリ市内を乗り回し、フランス人の間から羨望とひんしゅくを買っていた。とりわけユニークでパリっ子の注目を集めたのは、禅僧・弟子丸泰仙の進出だった。彼は商社マンから禅僧に転じ、パリの劇場で禅セレモニーを実演して見せた。エッフェル塔が見えるトロカデロにある劇場に見物に出かけた。壇上で約2時間、僧は無言のまま微動だにしない。観客もあっけにとられて沈黙を保ちながら様子を眺める。おもむろに立ち上がった僧は、半紙に毛筆で「以心伝心」と描き観客に見せる。同時にフランス語通訳に解説をさせる。会場は割れんばかりの拍手喝采。意表をついたデモンストレーションに違和感を感じた。パリ近郊に禅道場を開設しているというので訪ねた。想像以上に多くのフランス人が弟子入りしていた。その中にベルギー20世紀バレエ団を主宰するモーリス・ベジャールと人気ダンサーのジョルジュ・ダンの姿があった。ベジャールは自身が振付けた作品に日本の「静の動」を巧みに生かした演出をしていた。

     

    ブローニューの森を歩く北濱普門 絵手紙を描く僧として親しまれていた

     

    話は逸れるが、映画評論家のマックス・テシエは、東和映画副社長で外国映画を日本に紹介した川喜多かしこの影響を受け、溝口健二、小津安二郎、黒澤明など日本映画の代表作をフランスに紹介していた。彼も来日の際、小津の墓参りを欠かさない、日本人よりも日本的な心を備えていた。「享受側の感性が優れてさえいれば、エキスを生かして本質に迫ることができるのだ」と僕は知った。逆に日本人は弟子丸泰仙のように欧米的アピール術を取り入れ、国際化への布石に一石を投じていた。この弟子丸泰仙を訪ねたもう一人の日本人、北浜普門と出会った。シャンゼリゼ通りで疲労困憊してしゃがみ込んでいた彼に、僕が声をかけたのがきっかけだった。聞くところによると、パリで置き引きにあってサイフを丸ごと盗まれてしまったのだという。気の毒に思い「小さなアパートでよかったら泊まって下さい」と勧めた。彼の送金が届くまで同居することになった。先に記したように海外持ち出し額が限定されている時代なので、送金手続きに相当な日数が必要だった。卓越した僧ですら、路頭に迷ってしまうのも無理からぬことであった。翌朝、目を覚ますとテーブルにおかゆと山菜料理が皿いっぱいに盛られていた。彼は早朝からブローニュの森に出向き、山菜摘みをして料理を作ってくれたのである。孫ほど年の離れた若者に、同居期間中、毎日欠かすことなく続けた。「義理堅い人」つくづく感動した。弟子丸泰仙と北浜普門、まったく異質な2人の僧がパリを訪れたのだが、パリっ子に大きな影響を与えたのは紛れもなく弟子丸泰仙であった。

     

    ある日、オペラ通りの四つ星レストランの知人から「日本人が大変だ。すぐ来てくれ」と電話が入った。何事かと駆けつけると、団体客が浴槽の外にシャワーを流し大洪水になっていた。当時、高級ホテルは英語のできる従業員はいたが、日本語が話せる人はいなかった。そこで僕を思い出して連絡してきたのだろう。僕は直ちに蛇口を止め、団体客に注意を促した。客は酒に酔った勢いで「おまえは日本人だろう。いったいどっちの味方をするんだ」と絡む。この客が「俺は農協の者だ」と大声で何度も怒鳴ったので、このホテルでは同様のトラブルが発生するたびに「農協さん」という代名詞が定着してしまった。この種の日本人観光客のトラブルは、あとを絶たなかった。ホテル側は激怒しながらも次々と訪れる「農協さん」を、顧客として無視できなかった。ついには日本式に浴槽を改装するホテルも登場した。「頑固なフランス人も金の力に屈するのか」僕は寂しくなった。

     

    モンパリ

     

    僕は渡仏するに当たって確たる目的を持っていたわけではなかった。大学卒業後、就職活動に挫折して「どこでもよいから外国に出よう」そんな甘い思い付きからだった。渡航先にフランスを選んだのも明治時代の文豪や画家の華やかな欧州帰りに憧れていたからだ。本当にフランスに興味があって訪れたのではなかった。当時のパリでは、デザイナー・高田賢三、画家・菅井汲、バレエダンサー・浅川ひとみらが活躍していた。彼らは現地に根を下ろして成功していた。パリの日本大使館が主催するパーティーでも上席に彼らが、続いて日本から進出した法人とマスコミ関係者、そのほかは会場を埋める要員と、暗黙のうちに地位の区分がなされるほどの英雄だった。とくに著名な人は例外として、日本流の伝統や年功序列社会はここでは通用しなかった。日本で学んだ仏文学者などは思うように言葉が通じず、自信を喪失して自殺する者もいた。当時、話題になった遠藤周作著「留学」を読んで、わが身と重ね合わせて涙した者も多い。“実力の世界”と言ってしまえばそれまでだが、能力に加えて日本人が不得手とする自己ピーアール術もパリでは実力のうちだった。ニューヨークでは、ハングリー精神に燃えた若者が大富豪めざして挑戦していた。しかし、パリの成功者には知性が要求される。従ってインテリの挫折は、ナイーブな個性が災いして立ち直る機会を阻んでいた。

     

    在仏が長期にわたるにつれ、家族や知人から「パリに行くのでよろしく」との依頼も増える。自分のことで精いっぱいの自分には、他人の面倒と見る余裕もない。しかし、無視すれば「フランスかぶれ」と非難されるのを恐れて、ついつい受け入れざるを得ない。日本人ばかりと付き合っていてはフランスにいる価値がないと思うのだが、純粋な日本を尊ぶ一方で、日本に依存しない生き方とのジレンマに陥る。通信社の仕事は撮りっぱなし、フィルムをそのまま渡してしまうので、新聞や雑誌に掲載された結果も確認することが出来ない。子どもの頃から趣味として関わってきた写真だが、仕事となると義務が優先され楽しさも半減してしまう。僕は転機と判断、写真は趣味の領域において生活は別の手段で賄う決断をする。パリで写真現像所設立を試みる。日本の現像プリント技術は優れているので競争力があると考えたからだ。一時帰国した僕は輸入許可証の手続きを取り、パリで事業をする準備にかかる。当時、フランスで事業を興すには、フランス国籍を持つ2人以上のパートナーが必要だった。以前から面識のあったフランス人と中国系で日本語が堪能なフランス国籍をもった中国人2人をパートナーとして選んだ。そして、技術者として大学の後輩2名を加えて現像所を創設した。

     

    半年が経過し、事業は順調にいくかに思われた。しかし、2人のパートナーは急成長の売り上げを期待し、僕が考えていた着実な発展には反対だった。ある朝、事務所に出向くと現像機材一式が処分され、もぬけの殻となっていた。弁護士を雇って対応しようにも、この数年間に貯めた貯金をはたいて投資してきたので貯金は底をつき、黙って引きさがるしかなかった。借金せずに始めた事業なので、返済義務が生じなかったのがせめての救いだった。悪いときに不運は続くものだ。日本から連れてきた後輩の1人が赤軍派のトラブルに巻き込まれ、強制送還させられる事件が発生した。警察の取り調べは僕にも向けられた。事件の全容を把握できないまま、僕は茫然自失となった。東京の大手出版社で編集長をしていた人が現職を投げ打って、単身パリに住み着き、画家として生涯を終える決心をしていた。僕が訪ねた時、彼は病でやつれ、顔色は茶褐色、余命いくばくもないように思われた。鋭い眼光を僕に向け「君は、一体何を引きずって生きているんだ」と叱られたことがあった。失敗して、その言葉の重さがやっとわかった。彼は、ゴキブリの巣と化した小さな部屋で誰に看取られることなく他界した。貧しく他人に評価されなくとも、自分に納得いく生き方を貫く、結果はどうあれ、それが幸せな生涯だったということを。信念のかけらもない、僕こそが敗者なのだ。こんな顛末ではあったがパリ生活は、いろいろな体験や人との出会いがあった。屋根裏部屋の恋もあり、映画や小説に登場するヒロインのような切なく楽しい出来事も沢山あった。未熟、無謀、世間知らず、自分勝手など、とんでもない若者ではあったが、青春を懸命に走る自分の姿が懐かしく思い浮かぶのである。

     

    憧れのパリ、フランスは残像の世界に

     

    芽吹く春、避暑の夏など、ノルマンディー地方、ブルゴーニュ地方、ロワール地方、コートダジュール地方に食や自然を求めて、僕はよく旅に出た。その都度「パリはフランスにあらず」を実感した。本当のフランスの暮らしは、田舎でしか味わえない。個性豊かな町々、それがフランスの魅力でもあった。なかでも12世紀から13世紀に建てられたロマネスク寺院で知られるブルゴーニュの寒村ソーリューへは、郷土料理とワインを楽しみによく訪れた。春には辺り一面を菜の花が咲き、メルヘンの世界にタイムスリップした気もちになる。教会ではミサを終えた子どもたちの素直な明るい笑顔が眩しい。のどかに暮らす村民も、第二次世界大戦の折には、ナチス・ドイツにブルゴーニュ・ワインを渡してなるものかと一体となって戦う激しい気骨も兼ね備えていた。何度も訪れるうちに、村のホテル・オーナーと懇意になった。このホテルは同族経営で息子もまた、父の仕事を継承するのが当然と考えている。息子は新たな時代に備えて、ホテルに隣接した場所にブルゴーニュの個性を生かしたレストランを開設した。メインディッシュは、もちろんブルギニヨン。ブルギニヨンは、牛肉をワインで何時間も煮込むブルゴーニュの代表的な料理。ホテルやレストランのランクづけをするミシュラン・ガイドブックでは、二つ星の評価に過ぎなかったが、安価で素朴な味がフランス人の間で好評だった。

     

    ブルゴーニュ地方ソーリューのホテルと街並み

     

    フランス料理を本場で学びたいと望む知人から、修業したいのでレストンを紹介してほしいと依頼があった。僕はソーリューのレストランを紹介した。彼は6カ月間滞在する予定でソーリューを訪れた。1週間が経過したころ、突然、コック長から「彼を送還するからパリ駅まで迎えに来てくれ」と連絡が入った。喧嘩っ早い性格の彼のことだから、包丁でも振り回して迷惑をかけたのではないかと心配した。まずは、彼の話を聞かなくてはならない。僕は駅で彼が到着するのを待った。着くや否や頑強な体格の彼が、目に涙をいっぱい浮かべ「日本に帰りたい。女房と子供に会いたい」と泣きじゃくる。彼は熱愛の末、結婚して子供ができたばかりだった。ソーリューは、東西南北に1キロも歩くと地平線が果てしなく広がる陸の孤島。言葉が不自由なうえに妻子への思いが、彼のホームシックの原因だった。その後、帰国して有名人の溜まり場となる本格的フランス料理店を鎌倉で開き、大成功をおさめた。一方、ソーリューのレストランは日本との交流が活発になり、団体観光ツアー客が訪れ繁盛していると聞いた。それに伴ってホテルもレストランもモダンなインテリアに変身して三ツ星に格上げになったとか。大戦中でも頑固に守り通した文化がいつまでも変わらぬことを祈るばかりだ。

     

    僕は仲間と避暑を過ごすため、3週間の予定でノルマンディーの小さなヴィレールヴィーユという村でペンションを借りた。ベランダからドーバー海峡が眺められる素晴らしいロケーションだ。砂浜にはちりばめられた星屑のように、ムール貝が陽に照らされて輝いていた。僕たちは滞在期間が長いので、少しでも節約しようと自給自足の精神で臨む。大きなバケツにムール貝をいっぱい拾って、今日はニンニク入り煮込み、明日はムールスープとメニューをあれこれ工夫する。しかし、1週間も経つとそれも限界、ムール貝を見るだけで気分が悪くなった。何か他にないかと、町の中心街に架けられた橋から川を見下ろす。浅瀬に3メートルはあろうかと思われる大鰻が群れをなして川底を這っている。おいしい蒲焼が食べられると喜び勇んでペンションに鰻を運び、腹を裂いて自家製のたれに浸して網焼き作りを開始。ところが、20センチ四方あった鰻は、みるみるうちに親指の爪ほどに縮小。フランスの鰻は水分が多く、燻製加工以外は食べ物としては適していないのだ。今日の夕食はバゲット、チーズ、ワインのみ。3時間も料理に時間を費やした我々は無言で食卓につく。ところが、仲間が買ってきたバゲットが美味しい、我々は感激して、翌日、そのパン屋を見学に出かけた。パンの仕込みは午前4時から始まる。小麦粉をこね、型を作り、焼き上げるまですべて手作り。職人の表情も真剣そのもの。出来立てのパンの香ばしい空気が工房内を包む。先日、ヴィレールヴィーユを一緒に訪れた友人から、リゾート地に変わって面影もなかったと聞かされた。あのパン屋も機械製造による大量生産工場に変わってしまったのだろうか。

     

    フランスらしさを演出した環境をエトランゼに開放しているのがパリ。だからパリには生活の匂いはない。そのパリも70年代半ばから近代化の波が押し寄せ、夢想から現実世界へと路線変更の兆しが見え始める。地方にもその影響は及ぶようになった。僕が帰国した74年でも、都市開発による変貌は一部で見られた。しかし、気質は昔のままであった。頑固さや宗教心に裏づけられた優しさは十分に残っていた。でも、内実は価値観の変化に大きな不安を抱いていたに違いない。高齢者は、より痛感したことだろう。ド・ゴール政権時代を鉄道創設期に例えると、70年代は終着駅なき線路をさまよう10年であった。それ故、うたかたの夢をみることもできた。価値の曖昧さが引き起こす人々の情緒不安を、重厚な建造物やアート作品がかろうじて支えていた。そして現在は有無を言わせる暇もなく、テー・ジェー・ベー(新幹線)でいきなり終着の経済志向駅に運ばれる時代になってしまった。

     

    ブルゴーニュ地方

     

    久々に短期間ではあったが、パリに滞在する機会があった。レアール近辺は跡形もなく様変わりして、車の排気ガスが街を澱ませていた。ホテルもパリらしさは失せ、どこの国にもある近代化が進んでいた。この分では、田舎にも異変が起きているに違いない。悲しみも喜びも思い出に変えてくれた「憧れのパリ、フランス」、もう記憶の残像の世界でしか再会できなくなってしまった。

     

               アサヒグラフ1996年10月号掲載「フランス回想」修正版

     

                                           文と写真:奥村森

     

     

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