Landscape artists 芸術家のいた風景

2018.09.03 Monday 17:53
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    Landscape artists 芸術家のいた風景

     

     

    サン・レミのゴッホ

     

    Paul de Mausolee & Rue Vincent van Gogh ゴッホが入院した精神病院とゴッホ通りの羊飼い

    Paul de Mausolee & Rue Vincent van Gogh ゴッホが入院した精神病院とゴッホ通りの羊飼い

     

    ゴッホは1853年、オレンダのズンデルトで牧師の子として生まれた。そして、画商店員、教師、伝道師の仕事を経て1880年から画家を志した。「ひまわり」「医師ガッシュ」などの代表作で知られている。

     

    1888年、アルルで精神病発作から左耳を切るという事件を起こした。現地の精神病院に入院したが間もなく、重度の患者を受け入れるホスピスで精神病院でもあるアルルから北東へ32キロ離れたサン・ポール・ド・モーゾール修道院に移された。

     

    サン・レミの町は、南側にオリーブ畑と糸杉並木が広がり、今世紀初頭には古代グラヌム遺跡が発見された場所である。ゴッホは、この病院で寝室の他にアトリエも与えられ、気分の良い日には看護人と共に外出して絵を描いていた。

     

    モチーフは、鉄格子の窓から見える糸杉、麦畑、果実園、プロヴァンス風景などであった。こうして描かかれた油彩デッサンは150点にも及んだ。ゴッホのサン・レミ生活は入退院を繰り返しながら1年間続いた。

     

    病院は、今も昔のまま残っていた。ひっそりとした回廊を通り抜け一室を覗き込むと、シスターが患者達に絵の指導を行っていた。彼らの視線が一斉にこちらに向けられた。他人を寄せ付けまいとしていた。

     

    病院裏にあるゴッホ通りと名付けられた小道に出ると、可愛らしいオレンジ色のポピーの花が一面に咲いていた。偶然にも老羊飼いが数十頭の羊を連れているのにも出くわした。病院から解放された時、ゴッホも眺めたであろう風景が、そこにあった。

     

     

    パリ、モンマルトルが育てたユトリロ

     

    Place du Tertre & Rue Ravignan テルトル広場とラビニャン通り

    Place du Tertre & Rue Ravignan テルトル広場とラビニャン通り

     

    モーリス・ユトリロの住んでいたラヴィニャン通りを訪れようと、地下鉄を降りて階段を上がり、アールヌーヴォー時代に創られたギマールのアーチを潜る。駅前のベンチには昼間から飲んだくれて寝ているホームレスが目に入った。

     

    モーリス・ユトリロは、母、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として1883年パリに生まれた。ユトリロの姓は、美術評論家ミゲル・ユトリーリョが、彼を養子として籍に入れたことに由来している。

     

    不幸な出生遍歴からだろうか、若い頃から異常な飲酒癖が災いして、1900年にはアルコール依存症で入院を余儀なくされた。医師は、彼の母に「熱中するものがあれば、酒量が減るのでは」と絵を描くように勧めた。しかし、飲酒癖は一向に治らず入退院を繰り返した。

     

    それでなくとも、独学で絵を描きアカデミックな教育を受けていないユトリロは画壇から疎外された上に飲んだくれる日々を送り、益々孤立化していった。そんな気持ちを表現したのか、哀愁に満ちたパリの街角などモンマルトルのアトリエから見える身近なモチーフを数多く描くようになっていった。

     

    パリ芸術の中心がモンパルナスに移ってからも、モンマルトルに住んで秀作を描き続けたのである。ユトリロが頻繁に題材として描いたタルトル広場やラヴィニャン通り近辺は、夕暮れ時ともなると多くの観光客で賑わう。しかし、人気が無くなると、今でも画家の心情を伺える光景が其処かしこに存在する。

     

    孤独な人間が呼吸することのみ許される容赦なき街。その地獄から不死鳥のごとく這い上がった強かさ。亜流から本流画家に成り得た力は、医者にもおよばぬモンマルトルの逆療法環境に頼るところが大きい。1935年、コレクターの未亡人と結婚、晩年は絵ハガキをもとにパリ風景を描きながら裕福な生活を送ったと云われている。

     

     

    モネの睡蓮の池

     

    Garden of Claude Monet モネの庭園

    Garden of Claude Monet モネの庭園

     

    パリから西北へ約90キロ、セーヌ川の支流と緑豊かな小高い丘に囲まれた小さな村ジヴェルニー。ここにクロード・モネが43歳から移り住んだ家がある。以後、モネは光の変化の瞬間を精力的に捕えながら絵を描き続け、生涯をこの地で過ごした。

     

    モネは、広重の浮世絵「名所江戸百景・亀戸天神境内」に強くひかれ、自宅に日本庭園を造った。それを描いたのが有名な「睡蓮の池」と題する作品だ。モネは浮世絵師が描く花鳥風月に深い関心を抱いた。洗練された感覚で表現される四季の変化と余分なものを省く大胆な構図に魅せられたからだ。

     

    しかし、興味を抱いて単なる模倣に終始するのではなく、独自の境地を表現しているからこそ、印象派の巨匠と呼ばれる由縁なのだろう。ジヴェルニーに移った頃、モネは絵が売れず、経済的に極めて貧しかった。最初の妻は次男を出産した翌年亡くなり、やがてアリス・オシュアと再婚する。

     

    アリスの連れ子と彼の2人の子供を合わせ、一挙に子沢山となった。生活はより厳しさをましたに違いない。ジヴェルニーを取材に訪れた5月中旬は、晴れたり曇ったり雨が降ったり止んだりと一日中目まぐるしく天候が変化する。

     

    写真撮影には最悪のコンディションだ。しかし、モネならモチーフを凝視し、一瞬の移ろいも見逃すまいと脳裏に焼き付けたに違いない。「その粘り強さこそがモネの本領ではなかったのか」とさえ思えてくる。

     

    モネの池の中央には太鼓橋がかけられ、そこには鈴なりの観光客が写真撮影に余念がない。そして、橋のほとりに植えられた藤の花が美しく咲き乱れていた。睡蓮の花が咲いていなかったので池の監視員に何時頃に開花するのかと尋ねると「6月の初旬には咲きますよ」と教えてくれた。睡蓮の時期には少々早すぎたが、絵でしか見ることのないモネの池を眺めながら、モネの気持ちを推察できたのは嬉しい。

     

     

    コローが描いたシャルトル大聖堂

     

    Cathédrale Notre-Dame de Chartres シャルトル大聖堂

    Cathedrale Notre-Dame de Chartres シャルトル大聖堂

     

    フランスが誇る文化遺産シャルトル大聖堂。青い空に向かって突き刺すように伸びる2本の尖塔は左がゴシックで右がロマネスクと異なる様式ながら、不思議に調和しているのが面白い。ジャン・バティスト・カミーユ・コローは1830年、「シャルトル大聖堂」と題して作品を描いている。

     

    コローは1796年、パリで婦人装身具店の息子として生まれた。ルーアンで教育を受けた後、パリに戻り洋装店に奉公した。26歳頃から画業に専念、ミシャロン、ベルタンの門下に入り古典的伝統画を学んだ。1830年以降は、テオドール・ルソー等とフォンテンブローやバルビゾン付近の森や田園風景を描き、バルビゾン派の七星の一人と称されている。

     

    「人生の目的は風景画を描くこと」と決意しただけあって、自然を描いた作品が多い。初期の作風は古典的、優雅で細密な表現が際立つ。晩年はロマン的で詩情豊かな作風となった。パリの南東90キロ、人口4万の小さな古都を車で訪れた。遥か遠くから望むことが出来る大聖堂は、中世を偲ばせる風情がある。

     

    シャルトルは、20数年前に訪れた情景とは一変して観光用駐車場が設置されていた。コローが描いた大聖堂は、正面からのオーソドックスな構図だ。しかし、後世になって軒並み建てられた土産店やレストランによって、同じ角度から大聖堂を眺めることは出来なくなった。ここにも現代社会の縮図が顔を覗かせていた。

     

    文と写真:奥村森

     

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    Provence artists プロヴァンスの芸術家

    2018.09.03 Monday 12:52
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      Provence artists プロヴァンスの芸術家

       

       

      プロヴァンス地方は数多くの芸術家に愛されてきた。豊かな自然をモチーフにした作品を描いたり、アトリエを構えたりもした。彼等の中にはプロヴァンスが故郷の者もいれば、晩年をこの地で過ごす者もいた。プロヴァンスには山も海もある。燦々と輝く太陽、青く広がる空も財産だ。素晴らしい環境に置かれた芸術家は、おのずと光の巧みと色彩感覚を身につけてゆく。

       

       

      Auguste Chabaud オーギュスト・シャボー

       

      Auguste Chabaud オーギュスト シャボーの作品とモチーフ

      Auguste Chabaud           オーギュスト・シャボーの作品とモチーフ

       

      アヴィニョンからアルルに向かう県道沿いにグラヴゾンがあり、そこにオーギュスト・シャボー美術館がある。画家オーギュスト・シャボーは日本ではあまり知られていないが、ヨーロッパではピカソ、マチィスと並び称される存在だという。美術館は小じんまりとした3階建だが、作品は生活感に溢れたものばかりだ。

       

      シャボーは1882年10月3日、南仏のニームで生まれた。1896年からアヴィニョンのエコール・デ・ボザールに学び、ピエール・グリポーラに師事した。1899年17歳の時にパリ・セーヌ川沿いにアトリエを構え、アカデミー・カリエール・ジュリアンで制作に励む。サロン・ドートンヌにも出展を始めた。そのアカデミーに出入りしていたマティスやピュイ、デュランと出会い、後にフォービズム運動を展開することになる。

       

      父の支援で優雅なパリ生活を送るシャボーであったが、1901年に父が他界、一時帰郷を余儀なくされる。その頃フランスは大不況で、ワイン作りを糧としていた一家の生計も切羽詰まった状況に陥っていた。シャボーは家計を助けるため、航海士のアシスタントとしてジブラルタル、ダカール、ラスパルマス、セネガルなどアフリカ西海岸を運航する船会社に数カ月間ではあったが就職する。

       

      だが、シャボーの画道への執念は消えた訳ではなかった。父の逝去で帰郷した際にも、暇を見つけては肉屋の包装紙にクレヨンで自分の生活風景を絵にしていた。航海中も詩、旅行記と共に、折々のスケッチを描いた。航海中浸水事故が発生、無事生還した船乗りの多くは関係者に「バケツで何杯もの水を船からくみ出した」と恐怖体験を語ったが、シャボーは「絵を描くに必要な水分を筆が吸収したので、多少は沈没を防ぐのに役立ったかも知れない」と危機に遭遇しても平然と絵画にこだわり続けた逸話も残っている。この体験記は「画集・アフリカの思い出」と題して出版されている。

       

      また、彼は徴兵され1903年から3年間チュニジアのビゼールへ行き、1914年の第一次世界大戦時にも再度入隊している。兵隊になるのは不本意だったが、先々でデッサンが出来るのを楽しみにしていた。戦争中には、毒ガスに襲われながらも塹壕でデッサンを描き、軍隊で起こった事件や風俗などの貴重な記録資料も残している。その成果が評価され、退役後に国から勲章を授与されている。

       

      1921年にグラヴゾンの村娘バランタン・スジーニと結婚、四男四女をもうけてムサン村で暮らした。以後、1955年5月23日に亡くなるまでの約40年間、グラヴゾンのアトリエに通いながら制作に没頭した。1919年からシャボーは村人、風景、農民、牛馬などをモチーフに選び、グラヴゾンに閉じこもるようになった。村人は彼を「グラヴゾンの仙人」と呼んだ。

       

      1928年に母が逝去し、家業を継ぐことになる。ビジネスに疎い彼にとっては歓迎するべきことではなかったが、経済的なゆとりも生まれ、創作に弾みがつくきっかけともなった。とにもかくにも、これほど絵が好きだった画家はいなかった。

       

      エコール・ド・パリの拠点であったモンパルナスは、多国籍文化が混合して新しい流れを築いた。同時にプロヴァンス地方も、歴史的に異文化を受け入れる土壌が芸術家を育てたのである。

       

       

      Paul Cezanne ポール・セザンヌ

       

      Le Mont Saint-Victoire & Atelier of Paul Cezanne サン ビクトワール山とセザンヌのアトリエ

      Le Mont Saint-Victoire & Atelier of Paul Cezanne サント・ヴィクトワール山とセザンヌのアトリエ

       

      セザンヌは1839年、裕福な銀行家の息子として生まれた。中学卒業後、父の強い要望もあって法学校に進んだ。だが、好きな絵画制作や詩づくりも並行して行っていた。父が所有するジャ・ド・ブッファンの広大な屋敷の屋根裏部屋で創作に励んだと言われている。

       

      晩年に建てられたローヴのアトリエからはサント・ヴィクトワール山の素晴らしい景色を見渡すことが出来た。彼は亡くなるまでの数年間、ここで幾何学的な絵画空間の追求に没頭したのである。ピカソ、ブラックなど、キュービズムの画家たちがセザンヌの絵画や詩を敬愛したにもかかわらず、地元での理解は余りにも粗末なものであった。

       

      彼の死後、アトリエは放置され朽ち果てる寸前だったが、幸いにもアメリカのセザンヌ保存委員会によって手厚く補修され辛うじて難を逃れた。しかし、周辺は無計画に建てられた高層マンションによって、セザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山の見える風景は今見る影もない。現在、エクスの観光名所となっているセザンヌのローヴのアトリエは小高い丘の上にある。小さな門を潜ると、樹木に覆われた簡素なアトリエがある。

       

      1906年、セザンヌが亡くなった時、そのままにアトリエは保存されている。壁には彼のコートが掛けてあり、イーゼルには描きかけの絵が置かれ主人を待っているように見える。写真撮影を出来るか管理責任者らしき老女史に尋ねてみるが、彼女は私達の話も聞かずに、眉間にしわをよせ「ノン、ノン」と追い出す素振り。その無礼な対応に驚かされた。

       

      これでは、セザンヌが好きな人でも一挙に熱が冷めてしまう。多忙で気が回らないのかも知れないが、文化資産を管理する人は、画家の精神を汲んで心して対応して欲しいものだ。さもないとアメリカ保存委員会の努力も水の泡になってしまうし、ファンを失う結果になりかねない。これではセザンヌも草葉の陰で泣いていることだろう。

       

       

      Daniel Pernix ダニエル・ペルニ

       

      Daniel Pernix & his family ダニエル・ペルニさん とその家族

      Daniel Pernix & his family ダニエル・ペルニさん とその家族

       

      1996年5月、ダニエル・ペルニさんを訪ねた。彼の工房は、田園地帯に垂直に切り立つ岩山の頂上から1キロほど下った「カテドラル ディマージュ」と呼ばれる急斜面にあった。事務所兼アトリエは、石灰岩の大きな岩山をくり抜いた洞窟内にあり、入口には彼の彫刻作品が並べられている。柔らかな曲線で表現される作品と豪快な岩山が調和して面白い。

       

      プロヴァンスは芸術を学ぶには便利な場所にある。フランス国内は元よりイタリアにも容易に訪れることが出来るからだ。ダニエルさんはイタリア北東部のアドリア海に隣接する都市、ヴェネツィアの文化財修復学校で学んだ。作家活動同様に「僕は何でも創る石職人」と修復師としての誇りを持っている。

       

      彼の重要な仕事の一つに教会の修復作業がある。とりわけ聖堂は、神の家として強い象徴性が要求される。そのためか作品には鳥獣顔をした守護像が数多く見受けられる。ダニエルさんのヴェネツィア留学は技術習得、東方・北方文化とのふれあい、修復作業を通して歴史遺産の重要性など精神を高める貴重な体験となった。

       

      1959年、彼は、サン・レミで生まれた。サン・レミはゴッホが1888年にアルルで精神病発作から左耳を切断する事件を起こした後、入院したホスピスで精神病院でもあった旧サン・ポール・ド・モーゾール修道院がある町として知られている。

       

      ダニエルさんは、ゴッホの愛人であった「ラケルの裸像」を作品化している。素材は、アトリエのある場所で産出する石灰岩を使っている。ほどよい硬さが彫刻に適しているのだという。「ラケルの裸像」は円やかな曲線で東洋的エロティシズムが感じられる。

       

      郷土の話をモチーフにして地元素材を使い、ヴェネツィア的感覚が生かされ、プロヴァンスの恵まれた芸術環境に相応しい作品だ。彼は、早朝から夕方まで工房で作業を続ける。仕事場には、助手1人しかいないので営業活動もこなさなくてはならない。彼は妻のシルヴィーさんと3歳になる娘のノエミーちゃんとの3人暮らし、家族の生活はダニエルさんの双肩にかかっている。

       

      昼時になると、シルヴィーさんがノエミーちゃんを伴って弁当を運んで来るのが日課だ。ノエミーちゃんは訪れた異邦人に臆する気配もなく、握手とキスで迎えてくれた。国際性豊かなプロヴァンスならではと感心させられる。そうかと思へば、カメラを向けると突然泣き出してしまう子供らしいシャイで素朴な一面も覗かせる。

       

      「シルヴィーとノエミーのお陰で、安定した気もちで仕事に集中できます。昼食をとりながら家族団欒の時間を過ごせるのも最高。もし自分の工房が都会にあったなら、こんな充実した日々をおくることは出来なかったでしょう。プロヴァンスに満足しています」とダニエルさんは満面の笑みを浮かべる。

       

      彼は夕方になると、20キロ離れた自宅に帰る。アトリエの留守を預かるのは愛犬の役目。普段はおとなしい愛犬だが、夜は主人の大切な作品を護る役目をしている。プロヴァンスは地中海を通じて多種多様の人種や文化を受け入れてきた。加えて、芸術コミュニティーの構築意識も強く、家族を大切にする土壌もある。やはり、プロヴァンスは芸術家が創作するに必要なすべての条件を満たす「母なる大地」なのかも知れない。

       

      現在、ダニエルさんの Val d'Enfer にある彫刻アトリエのは、個人や企業の様々なエンターテインメントを行う壮大なイベントスペースが創設されている。収容人員は200人。結婚式、セミナー、絵画個展など、ビデオ投影設備も完備され、白い石灰岩の壁に大きく映し出された絵画画像も見ごたえがある。屋外イベントも木々の茂った1ヘクタールもある広い会場で行なわれている。またプロヴァンスに行く機会があったら是非訪ねてみたい。

       

      文と写真:奥村森

       

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      Contemporary artist Ryohei Ohno 現代美術作家 大野良平さん

      2018.01.06 Saturday 12:21
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         街とひとの心の『再生』を願って

         

        未曾有の大災害、阪神淡路大震災から23年目を迎えます。

        はたして街やひとの心は再生されたのでしょうか。

        わが街、宝塚市も118名の尊い命が犠牲になりました。

        1.17の前夜に震災犠牲者を追悼するとともに、

        震災を知らない若い世代に命の尊さや生き続けることの

        意味について考える機会になれば幸いです。

        宝塚生』の祈り2018 パンフレットより)

         

         

        Object オブジェ 生

        Object オブジェ

         

        People to mourn the earthquake victims 震災犠牲者を追悼する人々 Ryohei Ohno 大野良平さん

         People to mourn the earthquake victims 震災犠牲者を追悼する人々 Ryohei Ohno 大野良平さん

         

        オブジェ』誕生の発端は、宝塚南口駅前のサンビオラ三番館に空き店舗が沢山あったので、2002年からそこを会場に現代美術展を開催していた。現代美術作家の大野良平さんが事務局を担当するようになり、阪神淡路大震災から10年目を迎えた2005年1月、街とひとの心の再生』をテーマに作家たちに参加を呼びかけた。

         

        だが、サンビオラ三番館も地権者のやむおえぬ事情で自由に使える空き店舗がなかった。かくなる上は街に飛び出して創作を仕掛けようと、武庫川中洲に再生という文字を石積みするアイディアが浮かんだ。残念ながら展示場所に限界があり、を削り』の文字だけになってしまった。翌年、破損した箇所の修復をしてライトアップを実行した同年秋、台風による大雨でオブジェ』は完全消滅してしまった。

         

        しかし、幸運な出来事もあった。2008年、有川浩の小説阪急電車』にオブジェが登場してから多くの人々に知られるようになり、2010年12月、地元ボランティアと一緒に『生』を再現、2011年の震災発生同日前夜の1月16日、懐中電灯による犠牲者追悼のライトアップが始まった。以降、その行事は毎年行われるようになった。

         

        ライトアップに先立って、2017年12月9日と10日の両日、午前9時から正午まで、石積みオブジェ(約、縦20m、横10m、高さ80cm)の復元作業が行われた。毎年、台風や豪雨でオブジェが流されたり破壊されたりしたが、大野さんの想いは当初と変わることはなかった。復元作業には、地元ボランティア延べ100人が参加、その中には震災を知らない子供たちの姿もあった。

         

        Work site 作業現場風景 左上の写真は大野良平さん (1)

        Work site 作業現場風景 左上の写真は大野良平さん

         

        Work site 作業現場風景 左上の写真は大野良平さん (2)

        Wish 積まれた石にボランティアが願いごとを書く

         

        芸術家めざして東京へ

         

        1959年、大野さんは宝塚市山本で生まれた。山本は、昔から植木職人の町として有名である。物心ついた頃から芸術家になりたいと思っていた。叔母が画家、佐伯祐三の甥に嫁いだので、パリで描いた作品が家に飾られていた。余談になるが、この絵は大阪空襲で焼失してしまったのだという。そのような縁から、佐伯祐三に関する本や作品集を買い求め、いつしか芸術家の生き方に憧れるようになった。大野さんの父、二良(じろう)さんはごく普通の会社員だったが、母、久子さんは3月に雪が降ると、その雪でお雛様を模る感性の持主、大野さんの素質は久子さん譲りなのかも知れない。

         

        高校を卒業して一年、浪人生活を過ごして19歳になると油絵が描きたくなり、東京で絵の勉強をしたいと家族に告げた。長男だった事もあり、二良さんは「芸術なんか河原乞食みたいなものだ」と反対した。しかし、1歳年上の姉、朱実さんが父を説得してくれたので上京が可能になった。朱実さんは、小さい頃からいつも優等生で家族の誇りだった。東京で独りぼっちでも「いつも自分を応援し見守ってくれる姉がいる」と思うだけで安心感があった。だが、そう甘いものではなかった。

         

        東京藝術大学受験に3度挑戦したが叶わなかった。藝大を受験するには学力も然ることながら、予備校の画塾に通って実技能力を磨かねばならない。しかし、大野さんには持ち合わせがない。たまたま借家近くに美術予備校の立川現代美術研究所があり、学費が安かったので通い始めた。現在は立川美術学院と名称を変更して立派な建物になったが、当時は安いだけあって校舎を歩くだけでギシギシと床が音を立てるのだった。

         

        生活費に窮する状況なのでモチーフを選択する余裕は無論ない。仕方なく近くを流れる多摩川の土手を訪れては、絵の制作に励んでいた。それを見かねた下宿の大家さんが「大野さん、作品売ってきたよ」と1万円を手渡すではないか。彼は小説家、立原正秋の弟子だというから、芸術関係に幅広い人脈があったに違いない。「草野心平さんが買ってくれたよ」彼は言う。草野は絵もじっくり観ずに「お金いるんだろう」と手渡したというのだ。憧れの詩人、草野心平に買って貰えたことが余程嬉しかったのだろう、大野さんは子息が誕生した時、『心平』と命名している。立川現代美術研究所では、受験目的の絵より、自分の気に入った絵ばかりを描き続けた。これでは藝大に合格する筈もなかった。だが、その行動が、大野さんの型破りな発想の原点に繋がったのではないだろうか。

         

        1982年、姉の朱実さんが24歳の若さで急逝した。両親から再三「戻ってこい」と言われ、1986年、大きな挫折感を背負い宝塚に戻った。

         

         

        帰郷、宝塚造形芸術大学入学、そして阪神淡路大震災に遭遇

         

        帰郷した大野さんは就職するつもりだったが、1987年、自宅裏山に宝塚造形芸術大学が設立されることを知り、第一期生として入学することにした。大学では彫刻家、今村輝久(1918-2004)教授に師事した。今村は戦後抽象彫刻の第一世代作家で、アルミや真鍮など金属を素材に独特な丸味と渋い光沢を生かして、お洒落でユーモラスな作品を制作していた。

         

        今村家は代々鋳物職人の家系。聖徳太子建立七大寺のひとつ、大阪市にある四天王寺の鐘は輝久の父が鋳造したものである。しかし、大阪空襲で工房が全部燃えてしまい、「もう、お前の好きなことをやれ」と父は家業の縛りを息子から解いた。それから輝久は彫刻の道へと進んだ。「今村先生は気さくで偉ぶらず、よく一緒にお酒を飲みました」、大野さんの言葉から良好な師弟関係が伺える。

         

        今村は自分が好きな彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシの作品を愛弟子に紹介した。ブランクーシはルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な作家、余計な装飾や説明を削ぎ落とし、シンプルな形と色で表現するミニマル・アートの先駆者である。「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」という名言も残している。大野さんはブランクーシに触発され、洋画から彫刻への転向を決意、原木を使ったブランクシー張りのシンプルな形を追求する創作活動を開始した。

         

        1995年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生した。大野さんが生まれ育った宝塚市山本の家は、戦前の木造建築、柱は傾き解体せざるを得なくなった。その事がきっかけとなり、自宅の廃材を使って作品を創るようになった。震災前までは原木を削って形を起こす作風だったが、震災後はあえて廃材の粗さを前面に現すようにした。「表面から見える時間性、素材のもつ命、それを具現化する作業」だと大野さんは解説する。

         

         Vessel of life 命の器 1992 (1)

        Vessel of life 命の器 1992

         

        作品『Vessel of life 命の器』は、命をもった素材と向き合い長い対話の中からから生まれるかたちを『命の器』と名づけた。

         

        Vessel of life 命の器 1992 (2)

        Origin of life 生命の起源 1993 Circulation 循環 2000

         

        作品『Origin of life 生命の起源』は、木という素材から有機的な生命のかたちを抽出することを探求した連作である。作品『Circulation 循環』は、現場の臨場感を出すため、壊れた家屋の写真を引き伸ばし、それに黄土を塗り、前方に苗木を配置、命の循環を表現しようと試みる。

         

        Scrap wood in memory 記憶の中の廃材 2002 & Memory of seed 種の記憶 2009 (1)

        Scrap wood in memory 記憶の中の廃材 2002 Memory of seed 種の記憶 2009

         

        作品『Memory of seed 種の記憶』は、ローズウッドの端材を磨きあげて樹木の命の根源である種子を想起させる。『記憶の中の廃材』シリーズ作品に孕(はら)む生命の象徴として配置した作品である。作品『Scrap wood in memory 記憶の中の廃材』は、震災で生まれ育った自宅を解体した時の柱、梁、引き戸などの木製遺品を素材として向き合った作品である。表面を規則正しくドリルで無数に穿つ。風化した表面から新しい木の地肌が立ち現れる。記憶をもった素材(廃材)の中から新たな生命を見出そうとしている。明治28年生まれの祖父、龍介さんは、戦後まもなく都会の大阪十三から長閑な宝塚山本に移った。戦時中に建てられた平屋建ての庵に『清風荘』という名を付ける風流な人物であった。「ちょっと遊び人だったらしいですけどね。夏になると建具を入れ替え、葦簀張りするなど季節感のある家でした」大野さんは幼少の頃他界した龍介さんと昔の我が家を偲ぶ。

         

        Scrap wood in memory 記憶の中の廃材 2002 & Memory of seed 種の記憶 2009 (2)

        Remember 記憶の原郷 2004

         

        作品『Remember 記憶の原郷』は、最終的に記憶は土に帰って行く。そんなイメージで型枠を作り、そこに黄土をふるいに掛ける。黄土は重いから沈下して飛び散ったりはしない。ギャラリー室内と外にあるベランダにまで黄土を拡散する。形あるものは、やがてなくなる。でも、心はいつまでも残る。若くして亡くなった姉の記憶が生き続けるという気もちを込めた作品だ。

         

        Pyramid of memory 記憶のピラミッド 2009 & Space-time 時空 2010 (1)

        Pyramid of memory 記憶のピラミッド2009 Space-time 時空 2010

         

        作品『Pyramid of memory 記憶のピラミッド』は、自宅の廃材を積み上げ記憶を再構築する工程なのだという。作品『Space-time 時空』は、積み上げたものもいつかは朽ちて土へ還っていく。しかし命の営みは永遠に続く。これは、何度流されても積み続ける『生』の精神に通じる。

         

         

        ひととなり

        大野良平さん

        Ryohei Ohno  大野良平さん

         

        「芸術は生き続けるもの、作家は死ぬまでが勝負」という理念を大野さんは抱いている。それを模索するかのように、人と場の出会いでの体験を素直に受け入れ、そこを出発点として新たな創作に挑もうと試みている。現代美術を志向する多くの作家たちには、排他的、刹那的で気難しい人も多い。しかし、彼はそれとは一線を画する存在である。ここに大野良平さんの人柄を象徴するエピソードがある。

         

        宝塚造形芸術大学を卒業して就職先に目途が立たなかった大野さんに、今村教授は甥っ子が務める工房を紹介した。その仕事場で抽象彫刻の草分け、故植木茂夫人と出会った。夫人は「木彫やっているなら、主人の木がぎょうさん残っているんやけど、もらってくれない」と大野さんに語りかけた。しかし、大野さんは恐れ多いと考え辞退したという。奥ゆかしい彼のひととなりが滲み出る逸話である。 

         

        2017年11月、こちらは宝塚ガーデンフィールズ跡地で開催された6回宝塚現代美術てん・てん2017での出来事、大野さんは仲間と激しい議論を交わす場面があった。大野さんは、同展で作家同士の出会い、そして、今は消えてしまった宝塚ガーデンフィールズ』への郷愁から生まれる創作の可能性を大事にしたいと考えていた。だが、作家の中にはコンセプトを設定して、それに相応しい作家を選択すべきだという考えを述べる者もいた。結局、大野案で実施することになったが、一体どんな風に纏まるのかという不安もあったが、そういう議論の過程も、大野さんにとってはアートなのだ。創作に対峙する厳格な一面もある。

         

        最近の大野さんは、展示会場と立体作品が有機的空間を構成するインスタレーションと呼ばれる仕事を数多くしている。宝塚ガーデンフィールズ跡地で行われた6回宝塚現代美術てん・てん2017』では、その場にあった朽ち果てた木や枝を拾い集めて並べ、かつての大温室解体時に飛散したガラスの破片や無数のガラス玉を敷き詰めて作品を完成させている。だが、繊細な大野さんだから、潜在能力をもっと生かした作品づくりが可能ではないかと期待してしまう。自身も出発点だった油絵や原木の木彫に戻りたいと思っているようだ。幼少の頃、「宝塚ファミリーランドを訪れると観覧車や動物園があり、花火大会もあって心がワクワクした」という大野さん。そんな素朴さと自分に正直な姿勢に私は魅かれた。

         

        大野良平さんのFacebookページ http://facebook.com/ohnor

         

        文と写真:奥村森

         

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