Contemporary artist Ryohei Ohno 現代美術作家 大野良平さん

2018.01.06 Saturday 12:21
0

     街とひとの心の『再生』を願って

     

    未曾有の大災害、阪神淡路大震災から23年目を迎えます。

    はたして街やひとの心は再生されたのでしょうか。

    わが街、宝塚市も118名の尊い命が犠牲になりました。

    1.17の前夜に震災犠牲者を追悼するとともに、

    震災を知らない若い世代に命の尊さや生き続けることの

    意味について考える機会になれば幸いです。

    宝塚生』の祈り2018 パンフレットより)

     

     

    Object オブジェ

     

     People to mourn the earthquake victims 震災犠牲者を追悼する人々 Ryohei Ohno 大野良平さん

     

    オブジェ』誕生の発端は、宝塚南口駅前のサンビオラ三番館に空き店舗が沢山あったので、2002年からそこを会場に現代美術展を開催していた。現代美術作家の大野良平さんが事務局を担当するようになり、阪神淡路大震災から10年目を迎えた2005年1月、街とひとの心の再生』をテーマに作家たちに参加を呼びかけた。

     

    だが、サンビオラ三番館も地権者のやむおえぬ事情で自由に使える空き店舗がなかった。かくなる上は街に飛び出して創作を仕掛けようと、武庫川中洲に再生という文字を石積みするアイディアが浮かんだ。残念ながら展示場所に限界があり、を削り』の文字だけになってしまった。翌年、破損した箇所の修復をしてライトアップを実行した同年秋、台風による大雨でオブジェ』は完全消滅してしまった。

     

    しかし、幸運な出来事もあった。2008年、有川浩の小説阪急電車』にオブジェが登場してから多くの人々に知られるようになり、2010年12月、地元ボランティアと一緒に『生』を再現、2011年の震災発生同日前夜の1月16日、懐中電灯による犠牲者追悼のライトアップが始まった。以降、その行事は毎年行われるようになった。

     

    ライトアップに先立って、2017年12月9日と10日の両日、午前9時から正午まで、石積みオブジェ(約、縦20m、横10m、高さ80cm)の復元作業が行われた。毎年、台風や豪雨でオブジェが流されたり破壊されたりしたが、大野さんの想いは当初と変わることはなかった。復元作業には、地元ボランティア延べ100人が参加、その中には震災を知らない子供たちの姿もあった。

     

    Work site 作業現場風景 左上の写真は大野良平さん

     

    Wish 積まれた石にボランティアが願いごとを書く

     

    芸術家めざして東京へ

     

    1959年、大野さんは宝塚市山本で生まれた。山本は、昔から植木職人の町として有名である。物心ついた頃から芸術家になりたいと思っていた。叔母が画家、佐伯祐三の甥に嫁いだので、パリで描いた作品が家に飾られていた。余談になるが、この絵は大阪空襲で焼失してしまったのだという。そのような縁から、佐伯祐三に関する本や作品集を買い求め、いつしか芸術家の生き方に憧れるようになった。大野さんの父、二良(じろう)さんはごく普通の会社員だったが、母、久子さんは3月に雪が降ると、その雪でお雛様を模る感性の持主、大野さんの素質は久子さん譲りなのかも知れない。

     

    高校を卒業して一年、浪人生活を過ごして19歳になると油絵が描きたくなり、東京で絵の勉強をしたいと家族に告げた。長男だった事もあり、二良さんは「芸術なんか河原乞食みたいなものだ」と反対した。しかし、1歳年上の姉、朱実さんが父を説得してくれたので上京が可能になった。朱実さんは、小さい頃からいつも優等生で家族の誇りだった。東京で独りぼっちでも「いつも自分を応援し見守ってくれる姉がいる」と思うだけで安心感があった。だが、そう甘いものではなかった。

     

    東京藝術大学受験に3度挑戦したが叶わなかった。藝大を受験するには学力も然ることながら、予備校の画塾に通って実技能力を磨かねばならない。しかし、大野さんには持ち合わせがない。たまたま借家近くに美術予備校の立川現代美術研究所があり、学費が安かったので通い始めた。現在は立川美術学院と名称を変更して立派な建物になったが、当時は安いだけあって校舎を歩くだけでギシギシと床が音を立てるのだった。

     

    生活費に窮する状況なのでモチーフを選択する余裕は無論ない。仕方なく近くを流れる多摩川の土手を訪れては、絵の制作に励んでいた。それを見かねた下宿の大家さんが「大野さん、作品売ってきたよ」と1万円を手渡すではないか。彼は小説家、立原正秋の弟子だというから、芸術関係に幅広い人脈があったに違いない。「草野心平さんが買ってくれたよ」彼は言う。草野は絵もじっくり観ずに「お金いるんだろう」と手渡したというのだ。憧れの詩人、草野心平に買って貰えたことが余程嬉しかったのだろう、大野さんは子息が誕生した時、『心平』と命名している。立川現代美術研究所では、受験目的の絵より、自分の気に入った絵ばかりを描き続けた。これでは藝大に合格する筈もなかった。だが、その行動が、大野さんの型破りな発想の原点に繋がったのではないだろうか。

     

    1982年、姉の朱実さんが24歳の若さで急逝した。両親から再三「戻ってこい」と言われ、1986年、大きな挫折感を背負い宝塚に戻った。

     

     

    帰郷、宝塚造形芸術大学入学、そして阪神淡路大震災に遭遇

     

    帰郷した大野さんは就職するつもりだったが、1987年、自宅裏山に宝塚造形芸術大学が設立されることを知り、第一期生として入学することにした。大学では彫刻家、今村輝久(1918-2004)教授に師事した。今村は戦後抽象彫刻の第一世代作家で、アルミや真鍮など金属を素材に独特な丸味と渋い光沢を生かして、お洒落でユーモラスな作品を制作していた。

     

    今村家は代々鋳物職人の家系。聖徳太子建立七大寺のひとつ、大阪市にある四天王寺の鐘は輝久の父が鋳造したものである。しかし、大阪空襲で工房が全部燃えてしまい、「もう、お前の好きなことをやれ」と父は家業の縛りを息子から解いた。それから輝久は彫刻の道へと進んだ。「今村先生は気さくで偉ぶらず、よく一緒にお酒を飲みました」、大野さんの言葉から良好な師弟関係が伺える。

     

    今村は自分が好きな彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシの作品を愛弟子に紹介した。ブランクーシはルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な作家、余計な装飾や説明を削ぎ落とし、シンプルな形と色で表現するミニマル・アートの先駆者である。「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」という名言も残している。大野さんはブランクーシに触発され、洋画から彫刻への転向を決意、原木を使ったブランクシー張りのシンプルな形を追求する創作活動を開始した。

     

    1995年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生した。大野さんが生まれ育った宝塚市山本の家は、戦前の木造建築、柱は傾き解体せざるを得なくなった。その事がきっかけとなり、自宅の廃材を使って作品を創るようになった。震災前までは原木を削って形を起こす作風だったが、震災後はあえて廃材の粗さを前面に現すようにした。「表面から見える時間性、素材のもつ命、それを具現化する作業」だと大野さんは解説する。

     

    Vessel of life 命の器 1992

     

    作品『Vessel of life 命の器』は、命をもった素材と向き合い長い対話の中からから生まれるかたちを『命の器』と名づけた。

     

    Origin of life 生命の起源 1993 Circulation 循環 2000

     

    作品『Origin of life 生命の起源』は、木という素材から有機的な生命のかたちを抽出することを探求した連作である。作品『Circulation 循環』は、現場の臨場感を出すため、壊れた家屋の写真を引き伸ばし、それに黄土を塗り、前方に苗木を配置、命の循環を表現しようと試みる。

     

    Scrap wood in memory 記憶の中の廃材 2002 Memory of seed 種の記憶 2009

     

    作品『Memory of seed 種の記憶』は、ローズウッドの端材を磨きあげて樹木の命の根源である種子を想起させる。『記憶の中の廃材』シリーズ作品に孕(はら)む生命の象徴として配置した作品である。作品『Scrap wood in memory 記憶の中の廃材』は、震災で生まれ育った自宅を解体した時の柱、梁、引き戸などの木製遺品を素材として向き合った作品である。表面を規則正しくドリルで無数に穿つ。風化した表面から新しい木の地肌が立ち現れる。記憶をもった素材(廃材)の中から新たな生命を見出そうとしている。明治28年生まれの祖父、龍介さんは、戦後まもなく都会の大阪十三から長閑な宝塚山本に移った。戦時中に建てられた平屋建ての庵に『清風荘』という名を付ける風流な人物であった。「ちょっと遊び人だったらしいですけどね。夏になると建具を入れ替え、葦簀張りするなど季節感のある家でした」大野さんは幼少の頃他界した龍介さんと昔の我が家を偲ぶ。

     

    Remember 記憶の原郷 2004

     

    作品『Remember 記憶の原郷』は、最終的に記憶は土に帰って行く。そんなイメージで型枠を作り、そこに黄土をふるいに掛ける。黄土は重いから沈下して飛び散ったりはしない。ギャラリー室内と外にあるベランダにまで黄土を拡散する。形あるものは、やがてなくなる。でも、心はいつまでも残る。若くして亡くなった姉の記憶が生き続けるという気もちを込めた作品だ。

     

    Pyramid of memory 記憶のピラミッド2009 Space-time 時空 2010

     

    作品『Pyramid of memory 記憶のピラミッド』は、自宅の廃材を積み上げ記憶を再構築する工程なのだという。作品『Space-time 時空』は、積み上げたものもいつかは朽ちて土へ還っていく。しかし命の営みは永遠に続く。これは、何度流されても積み続ける『生』の精神に通じる。

     

     

    ひととなり

    Ryohei Ohno  大野良平さん

     

    「芸術は生き続けるもの、作家は死ぬまでが勝負」という理念を大野さんは抱いている。それを模索するかのように、人と場の出会いでの体験を素直に受け入れ、そこを出発点として新たな創作に挑もうと試みている。現代美術を志向する多くの作家たちには、排他的、刹那的で気難しい人も多い。しかし、彼はそれとは一線を画する存在である。ここに大野良平さんの人柄を象徴するエピソードがある。

     

    宝塚造形芸術大学を卒業して就職先に目途が立たなかった大野さんに、今村教授は甥っ子が務める工房を紹介した。その仕事場で抽象彫刻の草分け、故植木茂夫人と出会った。夫人は「木彫やっているなら、主人の木がぎょうさん残っているんやけど、もらってくれない」と大野さんに語りかけた。しかし、大野さんは恐れ多いと考え辞退したという。奥ゆかしい彼のひととなりが滲み出る逸話である。 

     

    2017年11月、こちらは宝塚ガーデンフィールズ跡地で開催された6回宝塚現代美術てん・てん2017での出来事、大野さんは仲間と激しい議論を交わす場面があった。大野さんは、同展で作家同士の出会い、そして、今は消えてしまった宝塚ガーデンフィールズ』への郷愁から生まれる創作の可能性を大事にしたいと考えていた。だが、作家の中にはコンセプトを設定して、それに相応しい作家を選択すべきだという考えを述べる者もいた。結局、大野案で実施することになったが、一体どんな風に纏まるのかという不安もあったが、そういう議論の過程も、大野さんにとってはアートなのだ。創作に対峙する厳格な一面もある。

     

    最近の大野さんは、展示会場と立体作品が有機的空間を構成するインスタレーションと呼ばれる仕事を数多くしている。宝塚ガーデンフィールズ跡地で行われた6回宝塚現代美術てん・てん2017』では、その場にあった朽ち果てた木や枝を拾い集めて並べ、かつての大温室解体時に飛散したガラスの破片や無数のガラス玉を敷き詰めて作品を完成させている。だが、繊細な大野さんだから、潜在能力をもっと生かした作品づくりが可能ではないかと期待してしまう。自身も出発点だった油絵や原木の木彫に戻りたいと思っているようだ。幼少の頃、「宝塚ファミリーランドを訪れると観覧車や動物園があり、花火大会もあって心がワクワクした」という大野さん。そんな素朴さと自分に正直な姿勢に私は魅かれた。

     

    大野良平さんのFacebookページ http://facebook.com/ohnor

     

    文と写真:奥村森

     

     

    (重要)ここに掲載する記事、写真等は全て著作物です。

    著作権法に従って無断転載を禁止します。記事を利用される方はご連絡お願い致します。

     

     

     

    category:芸術家 | by:kansaishunjucomments(0) | -

    道明寺 六条照瑞 御前様

    2017.03.22 Wednesday 07:04
    0

      御前様との出会い

       

      1968年(昭和42年)、僕は父と梅満開の道明寺を訪ねた。父は六条照瑞(ろくじょうしょうずい)御前様のスケッチを、僕は写真を撮らせて頂いた。あれから長い歳月が流れ、父は他界した。御前様は、お元気でいらっしゃるだろうか、無性にお会いしたくなり、失礼を顧みず手紙を出させて頂いた。暫くして、美しい毛筆の書簡が届いた。再会して下さるという。

       

          奥村森撮影1968年          奥村土牛作品「照瑞尼」1968年

       

      道明寺縁起

       

      道明寺は聖徳太子の発願で建立された。尼僧寺院を建てるに当たり、仏教導入に積極的だった土師(はじ)氏が寄進、東西320メートル、南北640メートルの広大な境内に、五重塔・金堂・七堂・伽藍などを完成させた。これが道明寺前身の土師寺である。その後、数多くの仏像、経典美術工芸品、薬品等を宝蔵した。

       

      901年(延喜元年)、大宰府に左遷される菅原道真が、この寺にいた叔母の覚寿尼公を訪ね、次の一首を詠んで別れを惜しんだと伝えられる。「啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の鳴からむ里の暁もかな」。この故事は、後に人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)東天紅の段、道明寺の場」に描かれている。菅原道真が亡くなった後、寺名は道明寺と改められた。これは菅原道真の号である「道明」に由来している.

       

      戦国時代、兵乱で道明寺は消失したが、これを惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などの庇護により復興された。明治5年に神道と仏教、神と仏、神社と寺院をはっきり区別する神仏分離発令によって、道明寺は現在の天満宮境内から移された。その後、本堂落成、多宝塔を加えて現在に至っている。手入れの行き届いた庭園が訪問者を楽しませる。建立から1300年間、法燈絶えない尼寺として尊ばれているのである。

       

        道明寺          山門枝垂れ桜 道明寺提供         十一面観音菩薩立像

       

      六条照瑞 御前様

       

      道明寺では、代々華族の息女が住職になるのが慣わしであった。御前様が得度されたのは十八歳の春、その様子は、故片岡鉄平氏の小説「尼寺の記」に名文で綴られている。「たぐいまれな美貌に生まれながら、何ゆえ黒髪を断たねばらなかったのか」と惜しむ下りが読者の心をうつ。

       

      御前様は、京都御所の近くにある勧修寺(かじゅうじ)伯爵家に生まれ、大叔母様が先代の住職であったことから、植物学者の父上が道明寺の興隆に尽力された。その父上も御前様が十五歳の時に他界され、母上も四歳の時に亡くなられていたので仏縁の深きを感じて、女学校を卒業されると間もなく得度されたのだという。

       

      たった一人の兄も終戦の年にビルマの戦いで病死され、天涯孤独の身の上となられた。現在、御前様は尼僧として最高位の大僧正の位にある。歌は故山脇充史氏に学び、氏亡き後は御前様(師僧である照傳和上)について勉強された。茶道は官休庵流、華道は小笠原流の腕前である。御前様は九十歳を越える高齢になられたが、心身ともに若々しく、料理や掃除はご自分でされている。

       

      ここに御前様の人柄が感じられるエピソードがある。ある日、訪問客が御朱印を貰おうと道明寺を訪ねた。暫くして素晴らしい筆跡で書かれた御朱印帳を受け取った。御前様が直々に書かれたのを知って、面識もない参拝者にまで心配りされる御前様に敬意を表したという。

       

      和菓子原料の糒づくり

       

      道明寺では、もち米を備蓄食料とする糒づくりで知られる。古くは尼僧たちが、畳をあけ、蒸したもち米を家の中で十日ほど乾燥、再び五月の陽射しで十日ほど天日干しして、それを石うすで粗挽きして保存していた。昔、米は配給以外手に入らない貴重品だった。こうした厳しい環境ながらも、寺には保有米として一石を預かる権利があった。

       

      菅原道真が大宰府に遠流となり、蟄居の身を心配された覚寿尼公が、御本尊様に御膳と共に菅公のために糒をお供えされた。その御膳の御下がりを病に伏した人が頂いたところ、不思議なことに病気が治り元気になったという言い伝えがある。その評判を聞いた多くの人々が、御下がりを求めて寺にやって来た。この願いを叶えるべく、道明寺では一旦お供えしたご飯をもう一度乾燥して保存するようになった。これが「糒」の始まりである。

       

      こうした経緯から糒を「道明寺粉」、糒を原料として作った菓子や料理などに「道明寺」という銘が付けられるようになったのである。糒は明治時代にパリ万博に出展されメダルを獲得、保存食として高い評価を受けた。食べ方は至って簡単、糒に水や湯を注ぎ、季節によってカボチャやジャガイモを加えて食べる。

       

      道明寺糒

       

      再会

       

      地上300メートル、日本一の超高層ビルで話題になった大阪阿倍野ハルカスがそびえる近鉄線・阿部野橋駅から準急河内長野行きに17分ほど乗ると道明寺駅に到着する。昔ながらの風情を残す商店街を通り抜けると天満宮がある。直ぐその先に寄り添うようにひっそりと佇むのが道明寺だ。

       

       六条照瑞御前様 2013              梅と山門

       

      山門をくぐると御前様のお弟子さんに迎えて頂き、客殿に案内された。座敷の床の間には、以前訪れた折に目にした懐かしい雛人形が飾られていた。この雛人形は、江戸末期に作られ、御前様の大叔母様が道明寺に入寺の際に持参してこられたものだという。

       

      御前様は「お久しぶりでございます」と仰って深々と挨拶された。初めてお会いした折も華やかな美しさに感銘を受けたが、今は更に心がひかれる。内面からあふれ出る美しさ、優雅さが伝わってくる。

       

      お弟子さんが手づくりの白い餅菓子と抹茶を運んでくださった。椿の葉と渋い色合いの皿が糒を引き立てる。まるで芸術作品を眺めているような気もちになる。それを頂戴しながら御前様と懐かしく語り合った。

       

      御前様は「現在のお年寄りは、元気なのに仕事がなくて気の毒ですなあ、私には毎日することがあり有難いことでございます」と気づかわれる。この言葉には、もっともっと高齢者に己の道を歩んで欲しいとの願いが込められているように思えた。

       

       枝垂れ梅 道明寺提供

       御前様が創られた石文字

       

       

      道明寺 Doumyoji Temple Homepage ホームページ

      http://www.domyoji.jp/

       

       

      文と写真:奥村森

      参考資料:牛の歩み資料美術館

       

      (重要)ここに掲載する記事、写真等は全て著作物です。

      著作権法に従って無断転載を禁止します。記事を利用される方はご連絡お願い致します。

       

      category:寺社 | by:kansaishunjucomments(0) | -

      パリ、フランス回想 奥村森「青春彷徨記」1968-74

      2017.02.10 Friday 16:44
      0

        わが憧れのパリ、フランス 70年代青春の彷徨

         

        エッフェル塔& セーヌ川

         

        パリは夢追い人の憧れの終着駅だった。フランスは知的興奮を充足させる母なる国だった。5月革命で人々の心に暗雲が立ちこめ、目標を喪失してはいたが、パリが世界の恋人であることに変わりはなかった。1968年、僕は23歳の時、初めてパリの土を踏み、数年間をフランスで過ごした。

         

        1970年代は英雄の死から始まった

         

         僕が初めてフランスを訪れたのは、1968年10月であった。パリ・オルリー空港からリムジンバスで市内のアンバリッド・エアターミナルに到着すると、物々しい厳戒態勢が敷かれていた。海外経験のなかった僕は、早くも怖気づいていた。この年の5月、花のパリはゼネストで都市機能が麻痺し、ゴミの山と化した街中で、左翼学生と警官が激しい衝突を繰り返していた。これまでの革命は武器や暴力で政府に対抗するのが常であったが、市民がゼネストで抵抗するというネガティブ革命の始まりでもあった。この革命は“5月革命”と呼ばれ、その後遺症が尾を引いていたのである。第2次大戦後、喪失したフランスの栄光回復に尽力してきたド・ゴール大統領も、就任9年目にして政治的危機に立たされていた。69年には10年続いた長期政権も終焉を迎え、翌70年にはド・ゴールも80歳の生涯に幕を閉じた。秋冬のパリは厚い雲が覆い、市民の気もちに暗雲が立ちこめる。英雄の死は、それをより一層重苦しいものにしていた。強い大統領を失い、守る者も攻める者も頼る柱と標的をなくして迷走状態に陥っていた。 

         

        モンパルナスの古い建物と老人

         

        葬儀はコロンベイで行ってほしい、そして国葬は望まないと言うド・ゴールの遺言に従って、11月12日、アメリカ・ニクソン大統領、ソ連・ボドゴルヌイ最高会議幹部議長、オランダ・ユリアナ女王など63人の現職と前職を含む各国の国家元首が出席して、ノートルダム寺院でミサが行われた。故人の遺志に反してミサは華やかで各国首脳の外交の場になっていた。日本からは愛知揆一外務大臣が参列していた。フランスの流儀に合わせたのだろうが、外相のシルクハットが背たけに似合わぬほど高く、欧米に追いつけ追い越せの分不相応な日本の国家姿勢と意気込みがこんなところにも現れていた。

         

        フランス人は偉大な権威と誇りを失い、従来の価値観崩壊の兆しに大きな不安を抱いていた。ミサでのポンピドー大統領の演説も「フランスは未亡人になった」と、国民の気持ちを如実に代弁していた。ときに中国では文化大革命の嵐が吹きまくり、毛沢東思想が資本主義国の学生にも大きな影響を与えていた。経済至上主義に同調できない若者が、ヒッピーとなって地下道などで三々五々集う姿が見受けられた。パリ・モンパルナスや郊外のラ・デファンンスでは、古い建物が次々と近代的なビルに変わった。取り壊されないまでも黒ずんで汚れた建物は世紀の大掃除で白く小綺麗にされたが、歴史も情緒もともに洗い流してしまった。人は社会変貌に具体的な策を持たないまま、刻々と過行く時に身を任せていたのである。

         

        パリのエトランゼ

         

        僕はエアターミナルから、知人に紹介された15区のサン・サーンス通りにあるマダム・カメンスキー宅へと向かった。彼女のアパートは17番地にあった。ひと1人とスーツケース1個を載せるといっぱい、格子戸造りのアンティークエレベータに乗り、6階で降りると目の前にマダム・カメンスキー宅があった。彼女と夫は、白系ロシア人でフランスに揃って亡命していた。夫は有名な音楽家で、バイオリニストの諏訪根自子を育てたことでも知られている。夫が他界してからは、日本の音楽家に部屋を賃貸して生計を立てていた。音楽関係者以外、しかも男性の下宿人は、恐らく僕が初めてだったのではないだろうか。彼女はすでに高齢で、腰も曲がり目も足も不自由な身体であった。それでもベッドメーキングの仕方やテーブルマナーに至るまで難儀な身体に鞭打って親切に教えてくれた。当時、僕は23歳だったが、彼女はティーンエージャーと勘違いして保護者義務を感じていたようだ。

         

        朝食には、バケットにチーズ、ハム、ジャムなどをふんだんに挟んだサンドイッチを作り、「若いのだからもっと食べなさい」とすすめる。僕が無理して食べるものだから、日ごとにサンドイッチの量は増えていく。「もう結構です」と言いたくでも言葉も通じず好意を無にするのも憚られ、彼女が部屋から出た隙にカバンに食べ残したサンドイッチをしまい込んでは、出先で昼食と夕食に当てるのが日課となった。1ドル360円時代で円の持ち出し額が限られていたので大いに有難かった。しかし、1カ月の家賃750フラン(5万2千5百円)は、無職の僕にとっては負担が大きく、1ケ月で引っ越すことになった。何年か後に懐かしく思い、マダム・カメンスキーを訪ねたが、すでに亡くなって別の人が住んでいた。同じアパートの住人に尋ねても、彼女の消息を知る者はいなかった。親類縁者もいない亡命者の孤独な末路を考えずにはいられない。パリ在住も2年が経過しようとしていた。職の見つからない間は屋根裏の安下宿を転々としていたが、幸いにもコマーシャル・フォトスタジオで知り合ったドイツの友人に誘われ、エッセンの小さな通信社から仕事をもらうことが出来た。細々とはしていたが自立した生活ができるようになっていた。パリの住まいもグレードアップして、ブローニュの森が見えるアパートに移った。休日にはカメラ片手に辺りをスナップする余裕すらできた。

         

        地下鉄ポルト・マイヨ駅近くに雰囲気のよいホテル庭園を発見、ロビーを訪ね、片言のフランス語で受付のボーイに撮影許可を得ようと試みる。すると「はい、どうぞ」流暢な日本語が返ってくる。撮影することも忘れ「一体この男は何者だろう」僕の好奇心は高まる。彼は、アンドレ・ヴォルダルチック。チョコスロバキアから亡命し、12カ国語を自由に操る翻訳家だ。のちに三島由紀夫作品をフランス語に翻訳して出版するほどの人物であった。彼とは、友人として付き合うようになったが、若いころ地下鉄で乞食をしたこともあるとショッキングな話をしてくれた。僕も刺激されてポルト・マイヨ駅の地下道で1週間ほど乞食を体験した。意外にも沢山の人が恵んでくれるので、パン、チーズ、果物など最低限の食生活には事欠かなかった。

         

        メトロ モンパルナスビアンヌボー駅

         

        何より実感したのは、金持ちより貧乏人が、寂しいサイフの中から心づけをくれることだ。きっと他人の痛みが分かるからだろう。生活に窮していたのではなく乞食を演じた自分に後ろめたさはあったが、人間の心を知るうえで貴重な体験となった。後に著名になった日本人著作家も「乞食をしたことがある」と語っていたのを思い出す。当時は、かなりのインテリでもこうして糧を稼いでいたのだ。成功を夢見て。

         

        エコール・ド・パリ 人間模様

         

        1925年ごろから国外の芸術家がパリで暮らしながら制作活動をするようになる。これを呼称してエコール・ド・パリという。モディリアーニ、スーチン、パスキン、キスリング、藤田嗣治、シャガールなどが、その時代をリードした代表的な作家だ。彼らの作品には、祖国喪失者としての不安と哀愁が共通点として見られる。大戦後は、パリで活躍する内外の芸術家の総称として用いられるようになった。この時代を記録に残したのが写真家・ブラッサイである。彼もまた、ハンガリー出身で1923年からパリに住み着いた経歴の持ち主だ。彼は彫刻家、画家、詩人としても知られる多彩な芸術家だ。写真を志す者としてぜひ一度会いたいとの思いは、知人のつてを頼って実現した。彼は、大量のオリジナルプリントを見せながら写真家の地位について語った。ブラッサイほどの写真家にして、画家や彫刻家に比べると地位は低く、芸術家を撮らせてもらうには、まず気に入られること。だからプライベートな事、例えば女性関係の後始末などの面倒までもしたと回想する。

         

        写真家・ブラッサイ 1973 と芸術村 ラ・ルーシュ 1997

         

        藤田と同時期に渡仏して開花せぬまま埋没した画家も、敗者の掟から始末係としてモンパルナス界隈にたむろしていた。そしてついには、なだめるはずの女を妻にして晩年を迎えていた。彼の家はアラブ人労働者たちが住むパリの外れにあった。心の傷が癒えないのだろうか、多くを語らず薄暗い狭い部屋で不自由な身体をベッドに横たえながら「日本へは帰れない」と嘆いていた。一方、エコール・ド・パリ時代末期の画家、カテラン、ブラジリエ、テレスコビッチなどは、日本市場の外国崇拝に歓迎され、何度も来日する皮肉な現象が起きていた。

         

        パリの日本人

         

        70年代に入ると急激に日本人がパリを訪れるようになった。商社、画商、デザイナー、画家が先陣をきり、後半には旅行会社による団体ツアー客、それに伴って日本料理店やデパートがパリで営業を始めるようになった。ある画商は、発売されたばかりの高級車マセラッティーで派手にパリ市内を乗り回し、フランス人の間から羨望とひんしゅくを買っていた。とりわけユニークでパリっ子の注目を集めたのは、禅僧・弟子丸泰仙の進出だった。彼は商社マンから禅僧に転じ、パリの劇場で禅セレモニーを実演して見せた。エッフェル塔が見えるトロカデロにある劇場に見物に出かけた。壇上で約2時間、僧は無言のまま微動だにしない。観客もあっけにとられて沈黙を保ちながら様子を眺める。おもむろに立ち上がった僧は、半紙に毛筆で「以心伝心」と描き観客に見せる。同時にフランス語通訳に解説をさせる。会場は割れんばかりの拍手喝采。意表をついたデモンストレーションに違和感を感じた。パリ近郊に禅道場を開設しているというので訪ねた。想像以上に多くのフランス人が弟子入りしていた。その中にベルギー20世紀バレエ団を主宰するモーリス・ベジャールと人気ダンサーのジョルジュ・ダンの姿があった。ベジャールは自身が振付けた作品に日本の「静の動」を巧みに生かした演出をしていた。

         

        ブローニューの森を歩く北濱普門 絵手紙を描く僧として親しまれていた

         

        話は逸れるが、映画評論家のマックス・テシエは、東和映画副社長で外国映画を日本に紹介した川喜多かしこの影響を受け、溝口健二、小津安二郎、黒澤明など日本映画の代表作をフランスに紹介していた。彼も来日の際、小津の墓参りを欠かさない、日本人よりも日本的な心を備えていた。「享受側の感性が優れてさえいれば、エキスを生かして本質に迫ることができるのだ」と僕は知った。逆に日本人は弟子丸泰仙のように欧米的アピール術を取り入れ、国際化への布石に一石を投じていた。この弟子丸泰仙を訪ねたもう一人の日本人、北浜普門と出会った。シャンゼリゼ通りで疲労困憊してしゃがみ込んでいた彼に、僕が声をかけたのがきっかけだった。聞くところによると、パリで置き引きにあってサイフを丸ごと盗まれてしまったのだという。気の毒に思い「小さなアパートでよかったら泊まって下さい」と勧めた。彼の送金が届くまで同居することになった。先に記したように海外持ち出し額が限定されている時代なので、送金手続きに相当な日数が必要だった。卓越した僧ですら、路頭に迷ってしまうのも無理からぬことであった。翌朝、目を覚ますとテーブルにおかゆと山菜料理が皿いっぱいに盛られていた。彼は早朝からブローニュの森に出向き、山菜摘みをして料理を作ってくれたのである。孫ほど年の離れた若者に、同居期間中、毎日欠かすことなく続けた。「義理堅い人」つくづく感動した。弟子丸泰仙と北浜普門、まったく異質な2人の僧がパリを訪れたのだが、パリっ子に大きな影響を与えたのは紛れもなく弟子丸泰仙であった。

         

        ある日、オペラ通りの四つ星レストランの知人から「日本人が大変だ。すぐ来てくれ」と電話が入った。何事かと駆けつけると、団体客が浴槽の外にシャワーを流し大洪水になっていた。当時、高級ホテルは英語のできる従業員はいたが、日本語が話せる人はいなかった。そこで僕を思い出して連絡してきたのだろう。僕は直ちに蛇口を止め、団体客に注意を促した。客は酒に酔った勢いで「おまえは日本人だろう。いったいどっちの味方をするんだ」と絡む。この客が「俺は農協の者だ」と大声で何度も怒鳴ったので、このホテルでは同様のトラブルが発生するたびに「農協さん」という代名詞が定着してしまった。この種の日本人観光客のトラブルは、あとを絶たなかった。ホテル側は激怒しながらも次々と訪れる「農協さん」を、顧客として無視できなかった。ついには日本式に浴槽を改装するホテルも登場した。「頑固なフランス人も金の力に屈するのか」僕は寂しくなった。

         

        モンパリ

         

        僕は渡仏するに当たって確たる目的を持っていたわけではなかった。大学卒業後、就職活動に挫折して「どこでもよいから外国に出よう」そんな甘い思い付きからだった。渡航先にフランスを選んだのも明治時代の文豪や画家の華やかな欧州帰りに憧れていたからだ。本当にフランスに興味があって訪れたのではなかった。当時のパリでは、デザイナー・高田賢三、画家・菅井汲、バレエダンサー・浅川ひとみらが活躍していた。彼らは現地に根を下ろして成功していた。パリの日本大使館が主催するパーティーでも上席に彼らが、続いて日本から進出した法人とマスコミ関係者、そのほかは会場を埋める要員と、暗黙のうちに地位の区分がなされるほどの英雄だった。とくに著名な人は例外として、日本流の伝統や年功序列社会はここでは通用しなかった。日本で学んだ仏文学者などは思うように言葉が通じず、自信を喪失して自殺する者もいた。当時、話題になった遠藤周作著「留学」を読んで、わが身と重ね合わせて涙した者も多い。“実力の世界”と言ってしまえばそれまでだが、能力に加えて日本人が不得手とする自己ピーアール術もパリでは実力のうちだった。ニューヨークでは、ハングリー精神に燃えた若者が大富豪めざして挑戦していた。しかし、パリの成功者には知性が要求される。従ってインテリの挫折は、ナイーブな個性が災いして立ち直る機会を阻んでいた。

         

        在仏が長期にわたるにつれ、家族や知人から「パリに行くのでよろしく」との依頼も増える。自分のことで精いっぱいの自分には、他人の面倒と見る余裕もない。しかし、無視すれば「フランスかぶれ」と非難されるのを恐れて、ついつい受け入れざるを得ない。日本人ばかりと付き合っていてはフランスにいる価値がないと思うのだが、純粋な日本を尊ぶ一方で、日本に依存しない生き方とのジレンマに陥る。通信社の仕事は撮りっぱなし、フィルムをそのまま渡してしまうので、新聞や雑誌に掲載された結果も確認することが出来ない。子どもの頃から趣味として関わってきた写真だが、仕事となると義務が優先され楽しさも半減してしまう。僕は転機と判断、写真は趣味の領域において生活は別の手段で賄う決断をする。パリで写真現像所設立を試みる。日本の現像プリント技術は優れているので競争力があると考えたからだ。一時帰国した僕は輸入許可証の手続きを取り、パリで事業をする準備にかかる。当時、フランスで事業を興すには、フランス国籍を持つ2人以上のパートナーが必要だった。以前から面識のあったフランス人と中国系で日本語が堪能なフランス国籍をもった中国人2人をパートナーとして選んだ。そして、技術者として大学の後輩2名を加えて現像所を創設した。

         

        半年が経過し、事業は順調にいくかに思われた。しかし、2人のパートナーは急成長の売り上げを期待し、僕が考えていた着実な発展には反対だった。ある朝、事務所に出向くと現像機材一式が処分され、もぬけの殻となっていた。弁護士を雇って対応しようにも、この数年間に貯めた貯金をはたいて投資してきたので貯金は底をつき、黙って引きさがるしかなかった。借金せずに始めた事業なので、返済義務が生じなかったのがせめての救いだった。悪いときに不運は続くものだ。日本から連れてきた後輩の1人が赤軍派のトラブルに巻き込まれ、強制送還させられる事件が発生した。警察の取り調べは僕にも向けられた。事件の全容を把握できないまま、僕は茫然自失となった。東京の大手出版社で編集長をしていた人が現職を投げ打って、単身パリに住み着き、画家として生涯を終える決心をしていた。僕が訪ねた時、彼は病でやつれ、顔色は茶褐色、余命いくばくもないように思われた。鋭い眼光を僕に向け「君は、一体何を引きずって生きているんだ」と叱られたことがあった。失敗して、その言葉の重さがやっとわかった。彼は、ゴキブリの巣と化した小さな部屋で誰に看取られることなく他界した。貧しく他人に評価されなくとも、自分に納得いく生き方を貫く、結果はどうあれ、それが幸せな生涯だったということを。信念のかけらもない、僕こそが敗者なのだ。こんな顛末ではあったがパリ生活は、いろいろな体験や人との出会いがあった。屋根裏部屋の恋もあり、映画や小説に登場するヒロインのような切なく楽しい出来事も沢山あった。未熟、無謀、世間知らず、自分勝手など、とんでもない若者ではあったが、青春を懸命に走る自分の姿が懐かしく思い浮かぶのである。

         

        憧れのパリ、フランスは残像の世界に

         

        芽吹く春、避暑の夏など、ノルマンディー地方、ブルゴーニュ地方、ロワール地方、コートダジュール地方に食や自然を求めて、僕はよく旅に出た。その都度「パリはフランスにあらず」を実感した。本当のフランスの暮らしは、田舎でしか味わえない。個性豊かな町々、それがフランスの魅力でもあった。なかでも12世紀から13世紀に建てられたロマネスク寺院で知られるブルゴーニュの寒村ソーリューへは、郷土料理とワインを楽しみによく訪れた。春には辺り一面を菜の花が咲き、メルヘンの世界にタイムスリップした気もちになる。教会ではミサを終えた子どもたちの素直な明るい笑顔が眩しい。のどかに暮らす村民も、第二次世界大戦の折には、ナチス・ドイツにブルゴーニュ・ワインを渡してなるものかと一体となって戦う激しい気骨も兼ね備えていた。何度も訪れるうちに、村のホテル・オーナーと懇意になった。このホテルは同族経営で息子もまた、父の仕事を継承するのが当然と考えている。息子は新たな時代に備えて、ホテルに隣接した場所にブルゴーニュの個性を生かしたレストランを開設した。メインディッシュは、もちろんブルギニヨン。ブルギニヨンは、牛肉をワインで何時間も煮込むブルゴーニュの代表的な料理。ホテルやレストランのランクづけをするミシュラン・ガイドブックでは、二つ星の評価に過ぎなかったが、安価で素朴な味がフランス人の間で好評だった。

         

        ブルゴーニュ地方ソーリューのホテルと街並み

         

        フランス料理を本場で学びたいと望む知人から、修業したいのでレストンを紹介してほしいと依頼があった。僕はソーリューのレストランを紹介した。彼は6カ月間滞在する予定でソーリューを訪れた。1週間が経過したころ、突然、コック長から「彼を送還するからパリ駅まで迎えに来てくれ」と連絡が入った。喧嘩っ早い性格の彼のことだから、包丁でも振り回して迷惑をかけたのではないかと心配した。まずは、彼の話を聞かなくてはならない。僕は駅で彼が到着するのを待った。着くや否や頑強な体格の彼が、目に涙をいっぱい浮かべ「日本に帰りたい。女房と子供に会いたい」と泣きじゃくる。彼は熱愛の末、結婚して子供ができたばかりだった。ソーリューは、東西南北に1キロも歩くと地平線が果てしなく広がる陸の孤島。言葉が不自由なうえに妻子への思いが、彼のホームシックの原因だった。その後、帰国して有名人の溜まり場となる本格的フランス料理店を鎌倉で開き、大成功をおさめた。一方、ソーリューのレストランは日本との交流が活発になり、団体観光ツアー客が訪れ繁盛していると聞いた。それに伴ってホテルもレストランもモダンなインテリアに変身して三ツ星に格上げになったとか。大戦中でも頑固に守り通した文化がいつまでも変わらぬことを祈るばかりだ。

         

        僕は仲間と避暑を過ごすため、3週間の予定でノルマンディーの小さなヴィレールヴィーユという村でペンションを借りた。ベランダからドーバー海峡が眺められる素晴らしいロケーションだ。砂浜にはちりばめられた星屑のように、ムール貝が陽に照らされて輝いていた。僕たちは滞在期間が長いので、少しでも節約しようと自給自足の精神で臨む。大きなバケツにムール貝をいっぱい拾って、今日はニンニク入り煮込み、明日はムールスープとメニューをあれこれ工夫する。しかし、1週間も経つとそれも限界、ムール貝を見るだけで気分が悪くなった。何か他にないかと、町の中心街に架けられた橋から川を見下ろす。浅瀬に3メートルはあろうかと思われる大鰻が群れをなして川底を這っている。おいしい蒲焼が食べられると喜び勇んでペンションに鰻を運び、腹を裂いて自家製のたれに浸して網焼き作りを開始。ところが、20センチ四方あった鰻は、みるみるうちに親指の爪ほどに縮小。フランスの鰻は水分が多く、燻製加工以外は食べ物としては適していないのだ。今日の夕食はバゲット、チーズ、ワインのみ。3時間も料理に時間を費やした我々は無言で食卓につく。ところが、仲間が買ってきたバゲットが美味しい、我々は感激して、翌日、そのパン屋を見学に出かけた。パンの仕込みは午前4時から始まる。小麦粉をこね、型を作り、焼き上げるまですべて手作り。職人の表情も真剣そのもの。出来立てのパンの香ばしい空気が工房内を包む。先日、ヴィレールヴィーユを一緒に訪れた友人から、リゾート地に変わって面影もなかったと聞かされた。あのパン屋も機械製造による大量生産工場に変わってしまったのだろうか。

         

        フランスらしさを演出した環境をエトランゼに開放しているのがパリ。だからパリには生活の匂いはない。そのパリも70年代半ばから近代化の波が押し寄せ、夢想から現実世界へと路線変更の兆しが見え始める。地方にもその影響は及ぶようになった。僕が帰国した74年でも、都市開発による変貌は一部で見られた。しかし、気質は昔のままであった。頑固さや宗教心に裏づけられた優しさは十分に残っていた。でも、内実は価値観の変化に大きな不安を抱いていたに違いない。高齢者は、より痛感したことだろう。ド・ゴール政権時代を鉄道創設期に例えると、70年代は終着駅なき線路をさまよう10年であった。それ故、うたかたの夢をみることもできた。価値の曖昧さが引き起こす人々の情緒不安を、重厚な建造物やアート作品がかろうじて支えていた。そして現在は有無を言わせる暇もなく、テー・ジェー・ベー(新幹線)でいきなり終着の経済志向駅に運ばれる時代になってしまった。

         

        ブルゴーニュ地方

         

        久々に短期間ではあったが、パリに滞在する機会があった。レアール近辺は跡形もなく様変わりして、車の排気ガスが街を澱ませていた。ホテルもパリらしさは失せ、どこの国にもある近代化が進んでいた。この分では、田舎にも異変が起きているに違いない。悲しみも喜びも思い出に変えてくれた「憧れのパリ、フランス」、もう記憶の残像の世界でしか再会できなくなってしまった。

         

        アサヒグラフ1996年10月号掲載「フランス回想」修正版

         

        文と写真:奥村森

         

        (重要)ここに掲載する記事、写真等は全て著作物です。

        著作権法に従って無断転載を禁止します。記事を利用される方はご連絡お願い致します。

         

         

        category:France フランス | by:kansaishunjucomments(0) | -